待ちに待った二ヶ月ぶりの立野先生の講義『ヘンゼルとグレーテル』は、ビリー・ワイルダー監督映画『昼下がりの情事』のラストシーンを演じられる(語られたのですが、雰囲気としてはです)ところから始まりました。
ゲイリー・クーパー扮する初老紳士に憧れ続けているとユーモアたっぷりに話されながら、モーリス・シュヴァリエ扮する父親像を紹介。ここから『ヘンゼルとグレーテル』が親からの自立というテーマを持っていること、自由な感覚を子ども達に育むことの出来る世界であることの講解につながっていきます。
また、先生はご自分の子ども時代にどのように『ヘンゼルとグレーテル』に出会ったか、子どもとしてどのように民話や昔話の世界と関わったか、子どもにとって遊びと物語の世界と想像がどんな密接につながっているかを語られます。聴きながら、私たち自身がどうような関わりをもってきたのかを思い起させていく糸口が開かれていくようです。
グリム兄弟が物語採集の旅をし、再話をし、出版した頃のドイツは近代化に遅れ、ナポレオン戦争でどん底にあえいでいた。 ドイツ民族の誇りを取りもどさせたいという願いがグリム兄弟にあった。
また近代ドイツ語に翻訳する中で粗野で非道徳的にみえる部分が改ざんされ、センス、モラル等が近代のフィルターにかけられている。
口承文学の研究が進んでいく中で評価のあり方も変わって来ている。
カール・ハインツ・マレ著『(子供)の発見 グリム・メルヘンの世界』みすず書房、ブルーノ・ベッテルハイム『昔話の魔力』評論社が紹介され、昔話が子どもたちにとって、かつ大人たちにとって如何に重要か、他者としての子どもの現実を学ぶためには、深層心理学を手がかりにグリムを読むことの意味、語って聞かせる大人が自己発見していなければならないことが説かれていきました。
『ヘンゼルとグレーテル』についてマレの言葉が引用紹介されました。
「考えられ得る最悪の状態の中でも、しょぼくれず、自分の力で自由になり・・・」聴きながら、そうだ!この「はなしはおしまい」感、読後感の手ごたえが素晴らしいのだ!自由へのイメージが込められているのだと感動してワクワクしてきました。
継母か実母かの問題にも厳しい生活の実状とはどのようなものか、グレーテルの女性としての成長に希望と民衆の知恵が込められていることと合わせて講解され、実母であることが胸に迫りまし
た。
ソクラテスの弁明・古事記・ハムレット・スティーブンソン・映画ティファニーで朝食を・透明眼鏡(まだまだ出てきましたね)を通して、ストーリとプロットの違いを知るという大きなテーマが紡ぎ出されていきます。
民話、昔話、好きだから記憶の中に残った。想像力、記憶力の中で完全に自分のものになっているのかどうか?語る時、ストーリには間違えてはいけない順番、小道具等がある。ストーリーの中に民衆の知恵が詰まっている。しかし、ストーリーを追うだけでは物語は伝わらない。プロットが問われてくる。プロットのありようで変わってくる。一人一人の生き様、価値観、感性、その人自身が関わってくる。
「児童文学への招待」を通して、知識ではなく、学び難いことではあるけれども、“自由の感覚”を得てほしいと語られる立野先生でした。
お茶の一時を楽しんで頂いて、質疑応答。DVDでバレンボイムの活動をご紹介しながら、自由な精神について思いをはせながら、講座を終えました。
ご紹介のケーキは生活クラブの消費材を使ったココアとエゴマのバターケーキです。
by大人の学校 アブラ
*当日のアンケートから*
・現状維持にとどまらず、打破する力を女性が持っていた。
・子どもの時に読んだ、ただのお話と思っていたものの中に、高年齢に達した私の「考えるテーマ」のあることがわかった。
・語り手としての大人が、自分自身を知ることの大切さ、そして自分自身を知ることの苦悩と大変さの覚悟を、再度認識しました。
・子どもたちと向き合う時の姿勢。語りで大切なのは間合いとリズム!大人が子どもたちを分かろうとしない限り、子どもは分からないもの。
・「子どもの発見」を読んでみたい。
・先生のあふれ出るお話しが時間の経つのも忘れさせて下さいます。
第3回以降のおしらせは、しばらくお待ち下さい。(お忙しい先生なんです・・・・)