「今、そして未来に必要とされる美術教育とは」中平千尋

今、そして未来に必要とされる美術教育とは
〜美術教育は何を育てることができるのか〜

 「いじめ」「自殺」という文字が新聞やメディアに毎日躍っている。メディアをにぎわせているのは最近のことであるが、学校現場では昔から問題視され、論じられてきた古くて新しい問題である。昨夜は、有名タレントなどが学校教育について様々な議論を交わしている番組を見た。中学生を含む日本人が、みんな「わがまま」で「無責任」になってきているという論調に、美術教師として不安感を抱いた。というのも、私自身「個性ある表現重視」の美術教育に携わり、生徒の「個性」を伸ばそうと、美術教育に力を注いでいる立場に立っているので、あたかも現状を作り出している要因が「美術教育」や「個性化教育」にあるのではないのか、という議論になりそうで冷や冷やしながら番組を見ているのである。
 実際、図工美術教育は、「個性」の名のもとに、「誰でもない自分自身の表現をしなさい」とか「人と違うことが個性なのだ」「誰とも違う発想ができることが素晴らしい」というようなメッセージを生徒に伝えてしまっているのは事実である。誤解を承知で言うと、昔の美術教育は、そうであった(個性中心主義)ように私は思う。私が中学校時代に受けた美術の授業で、お互いの作品を見合うとか、感想を言い合うという場面は全く記憶に残っていない。多分、ひたすら何か作品を作り続けていた授業だったのだろう。しかし、今は、「鑑賞教育」が盛んになってきており、自分以外の作者の作品を見ましょうとか、友だちの作品を見て感想を発表しあおう、とかいう場を教育現場に意図的に作り出しており、「自分一人で作品を作ることができればいいのだ」という教育をする教師は減ってきている。
 では、現状を考えた上で、今どんな美術教育が必要なのだろうか。上記のテレビ番組で、男性タレントが、「今の若者や子どもには我慢が足りない」と言い、他の出演者は「集団生活も必要だ。そういう教育をする学校が増えてほしい」と語っていた。これをそのまま鵜呑みにすると、美術教育は、どちらかというと自分で好きな方向をみつけていく教科であり、我慢もさせず、また個人を追究する教科であるので、テレビ上で望まれている方向と、全く逆のベクトルを持っている教科と言わざるを得ない。私は、最近のテレビを見ていて、いつか誰かが「美術教育が世の中や子どもを悪くしているんじゃないか」「美術教育はなくなってもいいんじゃないか」と言い出すんじゃないかと、はらはらしているのである。誰かが言い出してもおかしくあるまい。
 さて、ではもう一度、「今どんな美術教育が必要なのか」を考えてみよう。私は、次のように考える。中学生もそうなのだが、人間にとって最も難しい課題は、「我慢」ではなく、「自由にやっていい」という課題であると考えている。「自由」ということが一番難しいテーマではないだろうか。特に中学生は、誰かが決められたことや、すでに答えが決まっていることに対しては、目標をたてやすくがんばることができる。数学や国語、英語は誰かがみつけた答えを、誰かが決めたやり方で解いていくいってみればゲームだ。しかし、美術は、自分で目標を決め、自分でやり方を決めて進んでいくしかない。自分の行為の責任は全て自分にある。言ってみれば将来誰もが体験しなければならない「自由」の苦しさ楽しさを体験できる教科が美術なのである。そういった意味で、美術教育が現代も、未来も意味ある教科として生き残っていくとしたら、私は、「自由」を苦しみながら楽しめる教育である、「自由」を教える教科であるという方向以外ないと思う。
 しかし、それだけでは、「個人中心主義」そのままである。そこで、美術教育の視野を広める大切な要素が「鑑賞教育」というキーワードである。鑑賞教育で大事なことは、「みる=みられる=みせる」というサイクルである。「見られる」ことにより自分の作品をよく「見る」ようになる。「見せる」という行為により、自分とは違う他者を「見る」ようになる。そしてまた自分を「見る」ようになるのではないだろうか。それを実現するには、常に作品作りが、誰かに見せるという要素を取り込んでいなければならず、更に、より多くの不特定多数の方々に作品を発表していくという要素が入ってくることが必要となる。この状況がいかに美術教育にとって有効であるかは、とがびプロジェクトで実証されていると私は考える。逆に、自分自身や他者、不特定多数による鑑賞が意図的に組み込まれていない美術教育は、もしかすると個人中心主義を助長する教育であると言わざるを得ないのではないか。

 私は、過去の優れた芸術作品が作家個人とは関係なく出現したとは考えていない。自分自身を深く追究せずに天才達が残した作品であるとも考えていない。しかし、美術そのものと、教育の一環である美術教育とを分けるとしたら、そういうところなのではないだろうかと考え、提案したいのである。また、美術教育の可能性を、現代の殺伐とした学校を取り巻く雰囲気について一矢を投じたいと思い、この文章を書いた。
 とがびプロジェクトの3年生選択美術作品は、一見表現方法や技術が稚拙に見えるかもしれない。しかし、彼らや彼女達は、「戸倉上山田」というテーマのみ与えられ、全く「自由」に発想し、自分で作品の目標を決めているのである。しかも、どの作品も鑑賞者を意識し、自分の伝えたいことを、どうやったら伝えられるのかを工夫して表現している作品ばかりである。よくぞここまで自分で決めて制作したなあと私は驚くばかりである。「自由」の楽しさや苦しさを体験させ、でも「自由」は楽しいと感じさせるのは、3年間の長いスパンの必修授業での繰り返しの学習が必要である。それが一つ成果としてとがびでは現れているのではないかと私は感じている。今、そしてこれから必要とされる美術教育とは一体どんな教育か・・・・・・。私は、「自由」と「鑑賞」にヒントがあると思っている。