『廊下アートセンター in とがび』 通信 9 【最終回】 廊下アートセンターを終えて

とがび、さくらび共に無事終わり、みなさんお疲れ様でした。
廊下アートセンターの住中です。

廊下アートセンター通信ですが、前回の通信はつばさ祭の時で止まり、それから更新もとがび当日の報告もしないまま、廊下アートセンターが終わってから二週間たってしまいました。
読んでくださっている方々申し訳ありませんでした。

まず、報告として、前回の廊下アートセンター通信から、とがびまでの最後の二週間は、どがびのための準備活動でてんてこ舞いでした。
生徒のアニメーション作品の編集、美術部三年生の映像の編集、ギャルチームの写真加工、美術部OBの百物語、もなこさいとの写真印刷、機材設営などなど。

廊下アートセンターは、カフェ機能は機能していたのですが、本来のとがびのための準備センターとして、大忙し。
写真は準備風景のいくつかです。

とがび前三日は映像編集で連日ほぼ徹夜。
朝まで編集して学校に向かってました。

とがび前日も旅館の部屋で徹夜の編集でした。

ただ、日常的なカフェ部分は安定して、常連が訪れてはいつものように語ったり、廊下アートセンターを大好きな生徒たちは、終わることを惜しみながら日々が過ぎていきました。

とがび当日は、廊下アートセンターは、どういう風に廊下アートセンターが日常を行ってたかを、体験してもらうために、いつもどおりのカフェ運営。

展示としては、放課後カメラの写真を壁面全体に展示したのと、SOUKO GALLEYで生徒の個展、昼休み映画館のリクエストなどを行いました。

当日は、沢山の方々に訪れてもらい、色々な話をしました。
また、とがびに参加している仮装した生徒たちの休憩の場ともなってました。

振り返って、学校にアートセンターをつくるとはどういうものだったのか。
まだ、明確な言葉になってないことは多いのですが、今思っているのは、

・学校の中に特定の機能がない場をつくること。
・思いつきでも実現する可能性のある場と、何が起きるにしても、協力・示唆する人がいる場をつくること。
・学校と家庭とはまた違う、あいまいな空間をつくること。
・先生・親と違う、第三者の大人とのコミュニケーションの場をつくること。

だったのではないかと思っています。

特定の機能がないというのは、教室は授業をする所、理科室は理科の授業をする所など、学校は機能の集まりだと思います。
安らぐ場となりやすい保健室でさえ、やはり救護活動がメインです。

そんな中、学校教育の機能に関連しない場をつくり、また、そこに特定の役割のない人が居るということが、廊下アートセンターだったのではと思っています。

今回廊下アートセンターでは、「フリーダムアート」、「SOUKOGALLEY」、「放課後カメラ」、「昼休み映画館」などの企画が生まれました。
自分が企画したのもあるけど、生徒との会話から生まれたものや、生徒を眺めていて企画したものが多数ありました。

ただ、一か月と少し廊下アートセンターをやってみて、ようやく各個人個人の生徒が廊下アートセンターに求めているものや、常連の生徒のこだわりや、個性が見えてきて、ここから後一カ月あれば、それぞれの生徒に応じた廊下アートセンターとしての活動にとり組めたと思います。

とがびに参加する生徒(表現をする意思を表してるの生徒)を手伝うことは出来たのですが、表現の仕方がわからずにモヤモヤしている生徒にたいして、なんらかの表現活動へのサポートは今回ではあまり出来ませんでした。
何人かには、カメラやカフェを通じた自己表現の仕方は伝えられたと思っていますが、もう少し個々に対応したアクションを行いたかったです。

実施前は、長いかと思ってた一カ月とちょっとですが、終わってみると、もっと長い時間をかけて(100日程度)廊下アートセンターに取組みたかったです。

また、廊下アートセンターのカフェを通じて強く感じたことは、

・学校に必要なのはカフェかもしれない
・先生が忙しすぎる

単純に、あたたかいお茶をいい空間で飲んでホっとする生徒達。
放課後、一杯飲んで受験勉強に向かう生徒や、お茶しながら談笑の場とする女生徒達。
また、部活のストレスを発散しにまるで飲み屋のようにお茶を飲みにくる生徒達。
常連同士の学年を超えてだんだん顔が通じていく風景。

一杯のお茶を飲んで、すっきりした表情の生徒を毎日見ていて、

「学校に必要なのはカフェかもしれない」と思うようになりました。

また、生徒は『マスター』という『先生』とはズレた位置にいる大人の存在がいることで、『生徒』⇔『先生』という構造にいない存在を楽しんでいたように思えます。
軽口を言いつづけながらも、お茶を飲みにくるツンデレな生徒は、その「軽口をたたくこと」+「お茶の効果」でストレスを解消していたようです。

そういう意味でマスターの居るカフェというのは、学校の中に存在して良いのではと。
現実的には、カウンセラーが、マスターとしてお茶を出しながらいるのがいいのではと思ってます。

また、部外者として中学校に二カ月近くいたからこそ強く感じたのは、先生は忙しすぎるなぁ、ということ。

先生として授業で教えるということと、生徒へ本気で接したいという気持ちの両面あるのですが、忙しさのせいで、後半が難しくなっているように感じました。
廊下アートセンターに来た先生たちには、カフェみたいなことを自分もしたいという風な発言をする先生もいましたし、こういう場が学校にもっとあってもいいとも言っている先生もいました。
そういう先生の気持ちを行動に起こすには、先生たちには時間がなさすぎると。
今でさえプライベートを削って生徒と対応しているのに、それ以上のアクションは現状では難しいと思いました。

単純に「先生の数を二倍にすべきだ〜」と強く世の中に言いたくなりました。

廊下アートセンター、終わってみると、出来たこと、出来なかったこと、沢山ありました。
自分が出来なかったことは、中平先生や、生徒達が色々やってくれると期待しています。
すでに、新しい活動も始まっているみたいで、とてもうれしいです。

最後に、いつも昼休憩や放課後に来てくれた生徒達、放課後に来て手伝ってくれたOBの生徒達、協力してくださった先生方、実際に廊下アートセンターを見に来てくれた保護者の方々、そして、廊下アートセンター実現に尽力をそそいで下さった中平先生、本当にありがとうごさいした。

<中学生の終わって一言>

「普通の学校に戻っちゃった。」という生徒の言葉がリアルでした。

 —とがびが終わって、中平先生から来たメールより抜粋。

 祭りや、楽しいことは必ず終わるけど、

 終わるからこそ、楽しい間に目いっぱい楽しんで、

 終わるからこそ、また始めましょう。