さくらびレポート32〜鑑賞:見ることによって見えてしまう、そうでしか見えなくなってしまう。

櫻ヶ岡中学校の中平です。私が考案した3年間の題材配列プログラム「Nスパイラル」は、必ず鑑賞から始まります。題材の終了も鑑賞で閉じます。開始の鑑賞では、名作の対話型鑑賞や、登場人物になりきるロールプレイ鑑賞など、様々な形で作品を「見る」ということを追究しています。
しかし、最近、この「見る」ということが「見えない」こと「感じることができない」ということを発生させているんじゃないか、と感じています。

例えば、ジョージア・オキーフの「淡いアイリス」。これを一言で「花」と言えば、正解なのですが、花にしか見えなくなってしまう。それ以外の可能性は全てなくなってしまうのです。そうなると、次の思考は「どんな花なのか」「どこに咲いているのか」といった鑑賞に進んでしまうのです。

そこには、正解を求める思考はあっても、創造力やストーリーの広がりを楽しむ思考は一切ありません。

正解を求めるのが美術で扱う鑑賞なのではないと思います。もっというと、たとえ、この写真の作品が「花」にしか見えなくなったとしても、単なる花をわかりやすく描いた絵とは全く違うので、そこを自らの創造力で鑑賞していく力を付けたいとおもうのです。

実際、3年生の鑑賞授業で、写真のオキーフ作品を鑑賞したところ、生徒の感想に「なぜこの人は、花を大きくわかりずらく描いているのだろうか」という文章が書かれていました。そういった思考を持つと、「どうやら作者は単に花をわかるやすく描かなかった理由があるはずだ」と考えるのではないでしょうか。中学3年生には難しいでしょうか。

右の写真を見てください。何が描かれているかおわかりでしょうか?

人は、「見えてしまう」と、それ以外のものが「見えなくなる」ものです。

見えてしまう、正解がわかってしまうということは、固定的な見方しかできなくなるということでもあるのです。

固定的なものの見方をさせないで、いかに幅広く、可能性を考えさせるのか、そういう見方が楽しいと思えるようになるのか、そこを美術の鑑賞はねらっていきたいと思います。鑑賞の授業で40人が40種類の見方をする。それが理想です。