何のための美術教育か〜レッジョ・エミリアの幼児教育から

櫻ヶ岡中学校の中平です。今日は、中学生の実践情報から少し離れて、最近考えていることなどや読んだ本についてなど、私見を書いてみたいと思います。

「一体、何のために美術教育をしているのだろうか?」日々、そんなことを繰り返し繰り返し考えながら授業を行っています。何のために?当然美術作家を育てるためでもなく、絵をうまく描かせるためになど授業をおこなっているのでもありません。

今、私が私自身で美術教育の目的として考えていることは、「明日の日本人を育てる」ということです。そのための「創造力」であったり、「発想力」であったり、「創造的な技能」を育てていると考えています。生徒同士のコミュニケーション能力なども、まさに「明日の日本人を育てるため」だと考えています。

あくまで私見ですが、学習指導要領とはずれていないと思います。人間は、まず自分の経験に照らした自分の言葉で考え行動するものなのです。指導要領の言葉と違和感あるのはお許しいただきたいと思います。

明日の日本人のための、創造力とは一体何か。それは、東北のがれきの山を単なるゴミと考えるのではなく、そこから何か新しい希望や夢を発想する創造力のことです。また、戦争の兵器や原発を作りまくるために人をだます狡猾な知能(長年、学校教育は人をだますための学力増進や、思考停止をして従順な日本人を増やすことに貢献してきました)ではなく、本当の幸せを考えて作り出す力こそが、創造力であると思います。そういった力に美術教育が貢献してほしいし、貢献したいと考えているのです。美しい絵や色彩を塗ることができるのは、それはそれですばらしい力なのですが、それが、今・現在の日本で、義務教育における育てたい力ではないと思います。

レッジョ・エミリアで行われている幼児教育が、話題を読んでいます。日本の美術教育はまなぶものが多いと思います。しかし、忘れてはいけないことは、レッジョエミリアの表面的な模倣を教育現場で行うのではなく、どういう動機でこのような革新的で地域に根ざした教育が実現したのかという出発点です。レッジョエミリアの出発は戦争に対するレジスタンスです。「戦車から幼稚園を作る」をキーワードに、地域が一体となって学校を作ったという事実です。つまり、漠然と幼児に創造性を育てようとしているのではなく、明確に、歴史の過ちを繰り返さないための創造性、自分で物を感じ考える思考力と構成力を育て、二度と同じ過ちを繰り返さないための教育を行っていると私は感じています。経済発展も、科学の発展も、どれもすばらしいですが、その根底には、歴史的な過ちを繰り返さないための判断力や創造力、自分で考える力、友達と強調する力が必要なのです。ということをレッジョエミリアの実践から私は学ばせてもらいました。

日本はどうでしょうか。震災や原発事故後、正直言って、少なくとも学校現場は何も変わっていませんし、変わる気配もありません。様々な研修会に出席しても、そういった言及は現場の職員からも、大学の先生方からも、地域のかたがたからも出てきません。本当に今までのままで良いのでしょうか。私は、3・11から確実に目的や使う言葉が変化したことを自覚しています。美術の授業中も、将来の日本をどうするか、というような話を押さえ切れません。もう一度、「何のための美術教育なのか」「なぜ学校教育を行っているのか」を考えたいと思います。