東京都現代美術館で開かれている「大岩オスカール 夢みる世界」を観にいった。その一見写実的な作品は、画面に漂う何かしらの違和感と現代社会との緊張感と、密やかなノスタルジーの気配。数年前から、僕にとっても、目が離せないアーティストだった。
ではこの魅力の根源は奈辺にあるのだろうか。
実は、大岩オスカールは、先日、三津でお話しいただいた曽我高明さんが、本格的に日本に紹介したアーティストでもある。曽我さんによれば、ブラジル移民の二世であったオスカールは、幼少時にサンパウロの自宅の台所で、お母さんから日本語を教わったそうだ。そのため、彼の日本語にはいわゆる「おんなことば」が多く、1991年の来日時はゲイと間違われたという。また、日本の漫画や雑誌に囲まれて育ったそうだ。
バブルの頂点の東京で彼が目にしたのは、彼が子供のころから話を聞き、写真・絵などで見てきたもう一つの故郷が崩壊しつつある光景であった。そのため、彼の作品には、寓話化された日本とその解体が描かれたのだ。
しかしながら、当然、彼のアイデンティは「日系」のみにあるのではない。その証左に、2002年からニューヨークに居を移し活動を拡大している。
オスカールの吸引力の根源の一つは、その「境界」意識にあるのではないか。彼の表現のバックボーンは、インターナショナリズムにあるのではない。あくまで、自分の出自と経験ととりまく環境にこだわりながら、それぞれの境界をある種の抵抗感と痛みを持って踏み越えることにある。だとすれば、急速に国際化しつつも、世界的にみれば突出して均質な日本社会において、彼が示す「境界」意識は、私たちが生きる世界の矛盾を感覚的にあぶりだす。質感はずいぶん異なるが、李禹煥や蔡國強のアートがもたらすものと共通している。
考えてみれば、我らが山内知江子も、日本とチェコという、ともにアニメーションが盛んでありながら多くの点で反対側に位置する二つの国で学び、カコアと出会っている。彼女の作品、とくに「菊花の約」にも同様の抵抗感と痛みがあり、それが得がたい魅力となっているのではないか。
国際化は、単なる異文化交流で達成されるものではなく自らのアイデンティの確立と否応なく存在するまわりの世界との関係性でのみ達成されるのだ、と大岩オスカールの作品は教えてくれる。にもかかわらず、オスカールの作品は美しい。