芸術作品を味わうということ

1年前、香川県直島の地中美術館で、
『美を生きるー「世界と向き合う六つの話」』という本に出会った。
その中で青山昌文氏(1952生・放送大学教授)の文章に衝撃を受け、
私の「芸術の見方」はがらりと変わったし、大きく広がった。
今回は青山氏の文章をお借りしながら、「芸術の見方」について考えてみたい。
(端的にまとめるため、以下、印象深い文章を挙げていく。)

●一般常識になっている「芸術家と職人は違う。芸術は自己表現である。」という考えは、きわめて歴史の浅い考え方であって、この前提を捨て去ることから始めない限り、現代芸術はおろか古典芸術もわからない。

●芸術が自己表現でなければ何なのか・・・私は、世界表現であると思っている。芸術家とは、世界の側から突き動かされる受動的存在なのだ。

●少なくとも18世紀までは自己表現という考え方が存在せず、芸術家は自己表現とは違う原理で作品をつくり、人々は違う原理で作品を受容していたというのが、歴史的な事実。

●どの時代、どの文化圏においても、すぐれた芸術とそうではないものがある。

●「ある作品を好むのも好まないのも人それぞれ勝手である・好き嫌いはある」を超えるのが芸術である。

●芸術作品ほど、価値の序列がつけやすいものはない。価値の上下は厳然としてある。

●世界からの風をどう受けとめるか。どの時代も、芸術家は世界と格闘してきた。

●芸術家が媒介となってくれたその先にあるものを味わうことが、芸術を味わうということ。芸術作品に触れて感動するということは、芸術家の個性に感動するのではなく、その芸術が物として、存在として示してくれた、世界そのものの強度を味わうということ。

●われわれ非芸術家が作品を味わうときには、芸術作品に表現されているものは芸術家の自己ではなく、その芸術家が受けとめた限りでの世界であるという見方をすることによって、古典、現代にかかわらず、芸術というものがわかってくる。

「私にきたものは、私にしか描けない。他の誰も生み出せない。」
大好きなMAYAMAXXも言っていた。
芸術作品は、私に新しい世界をもたらしてくれる。
ドキドキさせてくれる。
魅たしてくれる。
私の精神状態によって、時と場所によって、見え方も感じ方も変わる。
青山氏の文章を読んで、なんだかとてもすっきりした。
作品のことをもっと深く理解できるようになったと思う。
ほんものを、いいものを見ていきたい。

ゆきんこ