「GOTEN GOTEN 2006 アート湯治祭」の7月の企画であり、山のひとつである「アートin湯治(AIT)」が12日、無事終了いたしました。昨年12月から準備を進めてきましたが、紆余曲折を経ながらも、終わってみるとほぼ「大成功」と言っていいような内容であったかと思います。
企画を進める上で遡上にのぼったのが、外からの来場者だけでなく、町の人が自分たちのものとして楽しめる「内向きの視点」ということでした。「アートin湯治」では、町内会のご協力を得、年配の方々を中心に作品制作にかかわっていただいたり、婦人部の方にはこれをサポートすべく炊き出しを行っていただいたり、あるいは学校帰りの小学生といっしょに作品づくりをしたりと、名実ともに「垣根を取り払った活動」たりえたのではないかと思います。
「GOTEN GOTEN 2006 アート湯治祭」が参加している「アサヒ・アート・フェスティバル(AAF)2006」は「アートでまちを考える・人と人をつなぐ」がテーマになっています。
私は今回この企画に参加し、「アートでまちを考える」だけでなく、「まちでアートを考える」ことができたことが、アーティストとしての自分にとって大きかったように思います。
「アート」という不思議なもの、その可能性は、それが常に固定化されることなく、これまで「アート」とされていなかったものまでをも「アート」にしてしまったり、「アート」の名のもとにさまざまな価値をはぐくみ、命を吹き込む力をもっていることにあるのではないかと思います。
「アートin湯治」がスタートしてから、東鳴子では「アート」という言葉が流行りだしています。
旅館のおかみさんが「私のアート見せるから」と、突如茶室を開放し、来場者に本格的なお茶を点てはじめたり、「これが俺のアートだ」と、旅館の主人たちが温泉を説明しはじめたり、育てている浮き草に「浮き草アート」というプレートをつけはじめる人があらわれたり。
それは「専門的な」見地からは「アート」でも何でもない、単なる「日常生活」に過ぎないことなのかもしれません。しかしそこにあるエネルギー、活力、おもしろさ、わくわくするような感じはいったい何なのでしょう。それこそが「まち」の、そして「アート」のもつ力、可能性ではないでしょうか。逆にいえば、そうしたわくわくする気持ち、おもしろそうだから見てみたい、自分もやってみたいという感情を起こさせるものを、「まち」や「アート」と呼んでしまってはどうなのでしょう。しかもそれが「日常生活」であるなんて、何とすばらしいことでしょう。
「アート」であるかどうかではなく、これが「アート」だというところからはじまってしまう、東鳴子のこの痛快な動きが、いつか「アート」そのものを、あるいは「まち」そのものを変えてしまうかもしれません。
会期中からちょっと疲れてブログお休みしていましたが、今後すこしずつドキュメントの方、アップしていきたいと思います。「通い湯治」もまだまだつづきます。
(コメント:門脇篤)