門脇です。
本当にみなさま、お疲れさまでした。
宮城県北部の温泉地・東鳴子と港町・塩竈との約70キロを、両地域にある三輪自転車トライクで走破し、両地域のそれぞれの持ち味である「米」と「塩」をもちよることで、「日本一うまい握り飯」を制作するワークショップを行う、という「アートライク”塩の道”」。けが人もなく、無事に「制作」を終えることができたのも、このような「よくわからない」企画にもかかわらず、支えてくださったみなさまの心意気のたまものだと思っております。
アートは感動だと私は思います。感動がアートの根拠であり、原動力であり、結果のすべてであると考えています。
また、まちづくりもそうではないかと思います。そこに住む人と人とがともに暮らす者として、感動を分かち合える関係性をいかに築いていけるかが、まちづくりの根拠であり、原動力であり、結果であるだろうと思います。
アートにひそむその感動力を、まちづくりにいかすこと。逆にまたまちづくりのリアリティとダイナミズムをアート作品にいかすこと。それこそが「まちとアート」の幸福な出会いではないかと考えています。
何だかわからないけど、おもしろそうだからやってみよう。どうなるかわからないが、やらないで後悔するよりは、やって後悔したい。そんな言葉を、私は東鳴子、塩竈の両地域で何度も耳にしました。そうした姿勢に支えられて、両地域における「まちとアート」をテーマとしたいわば社会実験が、面白いように進んでいるのを感じます。
もちろん、そこにはさまざまな重たい問題や避けられない難題がいくつもあるわけですが、それでもやってよかった、何が何だかわからないけど、こんなこと他では絶対できない、またやろう、そんな声に支えられ、ひとつひとつの問題を共有すること(無理やり解決するのではなく)で乗り越えていくこと、その健全な姿勢が、まちにもアートにも求められており、まちづくりやアートを通してそれに触れることの喜びを知った人の手で、それがほそぼそとであれつづいていき、広がっていく、そのひとつの事例として、「アート湯治祭」や「もとまちアート海廊」が評価されていくといいなと思います。
集客や経済効果といった数値でいえば、これら両企画はほんの微々たる企画ということにしかならないのではないかと思います。それどころか、やればやるほど「損」をしていく活動という風に言うこともできるかもしれません。
また、いかに「いい」アーティストの「いい」作品を展示できるかといった点で評価すれば、両企画における価値は限り無く低いものになるような気がします。それどころか、「まちにあるものがアート」「なんでもアート」とかいっている点ですでにアート作品がどうこういう次元を突き抜けてしまっているのだと思います。
しかしまちの方は非常に敏感です。しっかり楽しんでエネルギーにしている人の美しさ、豊かさにかなうものはありません。
感動できるというのは、発信するものがあるだけでなく、それに共鳴する受け手の存在があってのことです。それはまた感動が相互作用的なものであることを意味しています。その「関係性」に、あるいはそこだけに特化した興味をもって取り組んでいるところが、「アート湯治祭」など「まちとアート」をテーマとした企画にはあるように思います。それがモノとしてのアートの出来不出来という「原因」や、集客や経済効果という「結果」への、無関心ともいえる態度となってしまっているわけですが、それが逆にほとんど奇跡的なおもしろさとなる瞬間があって、それをどうにか「評価」する方法はないのだろうかと思います。
何はともあれ、「アートライク」、たいへんおもしろかったです。こんな「アート」を「制作」したかったというような「作品」になりました。
本当にみなさん、ありがとうございました。
(コメント:門脇篤、写真:小野さん)