スーパーマーケットの棚には早々と新米の袋が並べられている。早場米は高く売れるという流通市場の事情を反映しているのだろうが、各地のお米が集まっている。新米が早く登場することで、二〇〇七年産米は古米扱いになるのであろう。肩身も狭く低価格となっていた。
おいしい米を食卓にと、人びとは新米を買い求める。ぜいたくになったものである。昔はそんなことはなかった。十月中旬には神嘗祭、神に奉納する神事があった。現今、勤労感謝の日といわれる十一月二十三日が新嘗祭に起源のあることも忘れられている。その日は、稲作農民の汗の仕事に思いを寄せ、天皇が新穀を食する祭事であった。庶民の新米はその後であり、年末か正月の食まで待った。
そんな昔話はどうでもよいが、お米が生活に占める地位の低くなったことは気になることだ。お百姓さんの汗の労苦に思いを寄せることもなく、おいしいお米、新米へと傾斜する嗜好は罰当たりなことである。売れ残った古米を抱えて頭を抱える稲作農民の苦悩には心が痛む。
他人事ではない。こんな罰当たりなぜいたくが続くはずはないからである。いまは米余りであるが、米不足の未来は避けられない。安い米価が高齢化する稲作農民を鞭打っている。放棄水田も目だっている。近い将来に予想される食糧危機に備えて、都市民と農民が手をつなぎ、心を合わせねばならない。
米余りの今こそ、玄米の家庭備蓄をすすめたい。米余りへの対処であり、食糧危機への備えである。九三年凶作の米パニックを思い出す。わが家では古古米の備蓄米でのりこえた。備蓄玄米もおいしく、今日も感謝して頂いている。