河井寛次郎さんがよく散歩に出かけたという
植田に行ってきました。ひっそりとした小集落で
祝園(ほうぞの)駅から10分ほど登りつめた、
小高い地にあります。
-日々忙しく精力的に仕事をされていた方が時間を
つくってでも訪れてみたい植田村、その魅力は
なんなんでしょう?ということで-→釈迦の池
先日、昔の(昭和19年頃)「民藝」にこちらの様子をしたためた
エッセイが収録されていまして、一部手に入ったので(記念館で
コピーをいただきました)ガイドブックとして持参し、僅かでもその
ときの彼の心情に接すればいいな!という気持ちで訪れた。
「部落の総体」−家並が語りかけてくるもの−河井寛次郎
(昭和19年、土ひねりを離れなければならない状況下で、他のもの
-建築、詩歌など-からデザインを再思考しようという時期に至る)
「田圃の向ふから山の麓にかけて幾つかの村を遠望する
郊外の一角に立ちて、さてどの村に這い入ろうかと思ふ時、
自分は何時もためらい勝ちである。が、幸いどの村に這い
入ってもあまりそむかれない位、京都のぐるりの農村は
いためられたり汚されたりしてゐることが少ない。」
-→木津川方面をのぞむ-
「家と家とは−どうしてこんなに美しい間隔と均衡を保ちて隣り合わされたか。
相隔たる両者とは、どうしてこんなに美しい比率で隔離されたのか?
自分は何時もこの偉大な設計者の前に立って驚かないわけには行かない」
「村に這い入って一番親しみを示してくれるのは家である」
「家は隣との境には季節、季節の花を咲かせて、お互いの平和を楽しむ
緩衝地帯ででもあるかの様に、一枚か二枚の畑をはさませて置く。
畑の処々には、柿や栗や梅を植える。実を採る以外にもこれらの樹木は、
植えた者さえ知らぬ大きな使命をはたす。」
「またその畑を野菜や野草によって青くしたり、花によって楽しくしたりして
遊ばせて置かないのも、実益以外にどんなに大きな仕事が果たされて行く事か。」
路地と路地とがであったところ<辻>にある風景です。
少し奈良の方角に戻った西ノ辻、菅井の集落に
下ってみました。
ここにも同じ風景が見られました。
そして、まんまるの石
「小川の洗い場には石を並べる。素晴らしく並べる。」
生活に近いところで誰に見せるでもなくひっそり、
さりげなく飾ってみせるという文化の可愛いい心がけ、清げ。
工夫することの愛らしさ。
美しいですね☆
寛次郎さんのコメント:
「新しい自分が見たいのだ—仕事をする」
→河井寛次郎記念館・内庭
ここにも まんまるの石