学生ボランティアや若いヘルパーからよく「かわいい」という言葉が出ます。

もちろん障害をもった子どもに対しての印象(感想)です。

確かにこどもは「かわいい」、でもこの「かわいい」という言葉が発せられる度にボクは何となく座り心地の悪いクッションに座ってしまったようななんとも言えない感じがします。

たとえば親が我が子を「かわいい」と思う感情と学生ボランティアがこどもを「かわいい」と思う感情は立場性の違いがありますね。

親は一日中こどもとつきあい、生活の営みとともに「障害」という社会的困難とむきあわなければならない。

楽しいことも苦しいことも乗り越えた先にあるいとおしさが「かわいい」になるんだろうと思っています。

一方、ボランティアの立場からすれば『外見的』『一面的』なところしか見えないんだから、当然こどものかわいさというとらえ方が違ってくる。

それでもそれは仕方のないことではあります。

月に1回か数回、それも数時間しか行動をともにしないのだし、それがボランティアというものなのだろうから・・・。

ボクが座り心地が悪いと感じるのは、(そういった立場の違いが前提としてあるとしても)「こどもはかわいいものだ。かわいいから私はボランティアをしているのだ」という感情を前面に押し出すことで、一人一人のこどもの抱えていること(生活や「障害」)を見えにくくしてしまっているのではないかと思うからです。

実際、こういうことがあります。

イベント企画の後にボランティアに感想を聞いたりするのですが、「こどもがかわいくて楽しかった」という意見は結構大勢を占めます。

でもこちらからその日の行動を思い返してみると、こどもが制止がきかず走り回り続けたり、電車の座席で寝っ転がられたりとかなり大変な場面もいろいろあったはずなのです。

そういったことがありながらも「かわいくて楽しかった」という一言にその日の活動が置き換えられてしまっているという状況、私たちはこれをどう捉えればいいのでしょう。

たとえボランティアといえどその活動は『社会的な意義』があるのだということをわかってほしいなと思います。

月1回、障害児とのレクレーションイベントを企画、なぜそういったイベントがあるのかということを考えてほしいというのが本音です。

そういうことに思いをはせることのできるボランティアをどれだけ育てていけるのか、それがボクたちNPOの使命でもあります。

なまじっか関わって、捉え違いをしたままのボランティアを社会に出していくことはいろんな意味で『責任』が問われるだろうなと思っています。

粟津