「障害」者とはこの社会にとって問題のタネなのか?
そうだと思う。
何故問題なのか。
(健常者中心の)社会が「障害」者を受け入れることができないからだと思う。
学生時代、はじめて在宅の脳性麻痺「障害」者と出会い、「介護」の世界に入った。
それが「障害」者運動との出会いでありはじまりであった。
「障害」とは社会的なもので、当人の身体的、知的な劣性をさすものではない。
それが運動の主軸であった。
だから「「障害」者が当たり前に生きることのできる地域をつくろう」というスローガンがあった。
「障害」者問題は「障害」者自身ではなくその社会の問題なのだという、極めて当然な理屈でもってそれを掲げてきた。
これはあとからゆっくりの出発点でもある。
より地域を変えていくためにあとからゆっくりの事業がある。
この運動的スタンスを失ってしまうとあとからゆっくりは単なる福祉事業所となってしまう。
そうではあってならないと常にここでも書いてきた。
「障害」者の存在を問題とする社会に問いかけることが私たちの活動。
しかし今の世の中はどうだろう。
「障害」者自身に対する働きかけのみがやたらと目につく。
社会のはざまで問題を抱える「障害」者。
不登校、引きこもり、フリーター、DVや時に犯罪に関わることも。
”社会でうまく生きられない人たちに関わっていくとその人に「障害」があることがわかった”
現代は「障害」者大量生産時代。
権力や専門家たちによって「障害」者のラベリングをされた人がどんどん世の中に増えている。
そうしてその「障害」をいかに克服(軽減)するのかという、つまりは「障害」者に真っ当な社会生活をさせてやらないといけないという恩着せがましい療法や療育が氾濫している。
関係各位のみなさんの努力や苦労には申し訳ないが、息苦しいのだ。
「できることを増やす」ことは大事なことだと思うが「それでもできないことは他人にやってもらえばいい」くらいの割り切りができるようにならないものか。
周りを見ればあまりにも「障害」者自身に求めすぎている気がしてならない。
それでは結局何も解決しないのではないか。
あわづ