いじめの構造—なぜ人が怪物になるのかー 内藤朝雄より

距離をとる権利

自由な社会では互いに相容れない
多様な生のスタイルを生きるたち人が
平和に共存しなければならない
他人への迫害は厳しく禁止される
だから街や職場や学校で肯定的に受け止めることができない
別のタイプの生を生きる人たちが存在しているのを
いつも目にして生きることになる
自由な社会ではこのことだけは我慢しなければならない

それに対して特定の生のスタイルが共通善として強いられる透明な社会では
それ以外の多様な生のスタイルが絶滅されがちだ
そして個々人には次のような極めて耐え難い事態が降りかかってくる

①自分の好みの生のスタイルを共通善の玉座にすえるための陰惨な殲滅戦
②主流派になれなかった場合には自分の目からは醜悪としか思えない
 共通善への屈従(へつらいの人生)を生きなければならない苦しみ
③われわれの特定の善なる共同世界(コスモス)を「共に生きる」ために
 自分を嫌いになってまで、その共通善に『自発』的に服従しているかのように
 人格を加工しなければならない
(いわば魂の深いところからの精神的な売春を強いられる)屈辱と絶望

こういった一つの透明な社会(コスモス)が強制される苦しみと比較して
自由な社会で強制されるのはなじめない者の存在を許す我慢(寛容)だけだ
『存在を許す』というのは攻撃しないという意味であって『仲良く』するのとは違う
むしろ『仲良く』しない権利が保障されるからこそ『存在を許す』ことが可能になる

自由な社会では攻撃することは許されないが
嫌悪を感じる者との間に距離をとる権利
(あるいは生々しいつきあいを拒絶する権利)が保障される
自分にとって醜悪な者が大手を振って生きているのを見ることに
絶えなければならないだけで、自分がそのスタイルに巻き込まれる心配はない
この安全保障が人間社会に絶えず自然発生し続ける憎悪と迫害の力を弱め
ひとりひとりが自分なりの仕方で美しく生きる試みを可能にする

自由は人が誇りを持ってそれぞれの生を美しく生きるために
なくてはならないものであると同時に
多種多様な相容れない生のスタイルを生きる人々が
『仲良く』しなくても共存できるようにする社会の秩序原理でもある
『存在を許す』自由の秩序は『仲良く』しなくても安心して暮らせるしくみなのだ

・・・・・・友達100人できなくてもいいんだよね?皆と合わせなくてもいいんだよね?
だって本当の友達は一人か二人いればいい。私は私なんだから・・・・・・・

<マリーゴールドは周りの花を虫から守る働きがあります>