拒む心=求める心への接近 深沢道子 江幡玲子

ゆれ動く思春期への援助と援助者のあり方を問い返す!その5

親を保護者とのみ考え、教師が教師の立場から
何回面接をくりかえしたところで、その面接には
発展も深まりもないのである
親を保護者であると同時に、思春期を、少年期を生き
問題を抱え、乗り越え、くぐり抜けてきた一人の人間としてとらえるときに
問題を持つ子の親としての一人の人間にぶちあたるのである

人を助ける仕事に限界論が簡単に言われてもよいものであろうか
自分にとって何ができるか、何が不可能かを明白にすることは必要である
しかし自分の力で不可能だからといって
限界だと言ってしまうのは相手を本当に
“人間”として考えていることになるだろうか
“問題を持った人にとって何が必要か、なにをするべきか”
これを1番先に考えることが相手を生命ある人間として
考えることではないだろうか“行動” “こころ“に関わる問題において
なぜ人はもっと大胆にそして率直に他人の力、能力を
“問題を持つ人”のために結集しないのであろうか

問題解決の仕事は「技術」「方法」を学ぶことであるという考え方がある
それを貪欲に学び取ろうとすることも不思議ではない
そのことは「何かうまい方法はありませんか」という問になって発せられる
うまい方法を求めていていっこうにそれに行き当たらずに
いらいらして次々とうまい方法を探し求めるということにもなる
そしてそのうまい方法を探し求めていることが
“勉強”していることと錯覚されることさえある
これほど、問題を持った生徒にとって迷惑な話はないであろう
一人ひとりが違う人間であり、その負わされている成育歴を中心とした
歴史的条件、文化的条件も違うのであるから
人や問題を個別化するのと同じように、その方法についても個別化し
他の誰とも確実に異なった存在として彼に対する援助の方法を
見つけ出さねばならない
しいて言うならば、うまい方法とはその人に合った方法のことを
いうのではあるまいか
人の行動は技術とか既成の公式によってはとらえ難く
まして特殊な例である問題に対しては
ますます公式は見出せないということを充分に知っているはずである

・・・・・「人生にマニュアルはない」と言われますが
「思春期の育ちにもマニュアルはない」訳ですね・・・・・・

<こぶしの花が咲いています>