空気を変えてみる 流されず自分らしく 長山靖生より

ひところ「KY(空気が読めない)」という言葉が話題になった
若者たちの間では場の空気を読むことが重要視されており
それが出来ないのはとても恥ずかしいことだと思われているという
しかし、それは本当だろうか?

とりあえず目立たないように無難にやり過ごし、その場の空気になじみ
時代の空気に流されているのであればそれは「空気を読む」とはいえない
昭和の言葉でいうと日和見とか風見鶏といったものに近い

しかし周囲を見回し身を縮めているばかりでは空気が淀んでしまう
この空気を変える事はできないのだろうか
せめて自分の気持ちだけでも空気を読まずにちょっとかえてみないか

経済停滞の元凶のようにいわれる少子高齢化もそもそもは幸福の象徴だったはずだ
長寿になったことを嫌悪する人はいないだろうし
少子化もまた一人っ子でも無事に成長する確率がきわめて
高くなったことを前提にしている

少子化のもう一つの原因である結婚難は問題だがそれだって
「選ぶ自由」の結果ならば必ずしも悪くない
我々はそういう前提を当たり前だと思い込んでいるが
世界的に見れば奇跡のような達成なのだ
まだ手にしていない将来の安定までを、あたかも既得権のようにみなすのは
ある意味では傲慢なのではないか

現代社会にも希望がないわけではない
たとえば児童養護施設に匿名でランドセルなどをプレゼントする
「タイガーマスク現象」が広まっている
そういう弱者への優しさが日本社会にはある
また昨年は殺人事件の発生件数が戦後最小を更新した
この点に注目すれば現代は必ずしも殺伐としているわけではないのかも知れない

人口減少社会では経済の縮小は避けられないかもしれない
だが、誰もが社会的弱者に転落する危機感が高まっているからこそ
我々は本当に弱者に優しくなれるかもしれない
右肩下がりの状況を前提とした心構え、それなりの幸福のありようを模索したい

<桜草も春の花です>