あきる野市の地元の豪農、深沢家の土蔵から
明治初めに多摩の民衆がつくった
『五日市憲法草案』が見つかった
1968年東京経済大教授色川大吉のゼミ生
新井勝紘が古文書を調査中に
朽ちかけた小さな竹製の箱の中から
風呂敷に包まれた24枚の和紙を見つけた
和紙には「日本帝国憲法 千葉卓三郎草」と記され
204条が書き連ねてあり
調査の結果、明治憲法が公布される前
在野の学者や民権活動家が作った憲法私案のひとつと分かり
「五日市憲法草案」と命名された
当時、全国で自由民権運動が盛り上がり
五日市でも深沢権八らを中心に学習結社「学芸講談会」が結成され
メンバーは地主、中農、小作ら40人で
千葉が先生役となり日本の将来を論じ合った
千葉はこれを元に憲法草案を書き上げ
名もない人々の集団討議による「民衆憲法」が生まれた
しかも中身を読むと全国で見つかった100を超える私擬憲法の中でも
最も先進的なものだった
基本的人権の尊重、教育の自由の保障と教育の義務
法の下の平等,集会・結社・言論の自由、信教の自由
地方自治権などが盛り込まれ
国権主義的な明治憲法より戦後の日本憲法に近い
新井は「明治政府はそれらを一顧だにせず
一部の専門家が極秘に草案を作り国民に押し付けた
逆に戦後の憲法は形の上では連合国総司令部(GHQ)に
押し付けられたものかもしれないが
最近の研究で私擬憲法を参考にしていることが分かってきた
明治の民衆が願った理想の国家像がよみがえった」と話す
<春の七草ハコベは冬の寒さにも青々と茂っています>