経済にすがる寂しい社会 内山 節より

私が暮らす群馬県の山村、上野村は
数字上は決して豊かな村ではない
村民の平均所得は日本の平均を
はるかに下回っている

だから村民も所得が増やせるのなら増やしたいと
思っているしその努力もしている
「しかし」と村人たちは言うのである
「所得を増やそうとして村を壊してしまったら
なにもならない」と

村人は壊したくない世界を持っている
数字には表れてこない豊かな自然があるからこそ
成り立つ生活も壊したくない
村人が支えあい、助け合う風土も守りたい
地域の中に埋め込まれているさまざまな文化も大事にしたい

だから村人は言う「欲をかきすぎてそういうものを壊してしまったら
何にもならないよ」と
経済よりもっと大事なものがこの村にはある

「生活のためには経済発展が大事」という言い方が村人は嫌いだ
「生活できているではないか」と村人は言う
「少し苦労はしているけれど子どもを大学に進学させたりもできているではないか」
豊かな自然と助け合う風土に包まれて
所得は少なくても皆幸せに暮らしているではないか

「それなのに大事なことを忘れて、生活のために経済発展が必要だなどという言葉には
聞く耳を持たん」というのが上野村の人たちの気質である

今回の参議院選挙の過程では生活に困っていない人々も経済成長という言葉に
巻き込まれていった
それが今回の選挙のすべてだった
それは寂しい現実だった
経済成長よりも大事なものを持たない社会の寂しさであり
国の「成長戦略」に依存して生きる社会の寂しさである

経済は魔物である
一面ではそれは人間たちを豊かにする
しかし他面ではこの社会をバラバラな個人の社会に変え
お金以外に頼るものがない社会を作ったのも
働く人の3分の1以上が非正規雇用であるという現実を生み出したのも経済である

どんなふうに経済と向き合う社会を作ったとき私たちは幸せになれるのか
問われなければいけないのはそのことであって
そこにこそ私達の想像力を注ぎ込まなければならない

<サギ草は美しく不思議な花です>