発達的人間論 樹から下りたサルの運命 津留 宏より

・動くことと感じること
みずから動くことを行動とよぶなら、
心理学が行動の科学として
定義される根拠がここにある。
心理学は心の働きを科学的に研究する学問だが
その心の働きは実はみずから動くこと(行動)をとおしてのみ
外から認知できるのであり、
この行動を背後で主体的にあやつるものとして
心の存在が考えられるからである

・心の窓—感覚
生体は外からのいろいろな刺激を感受する。
それを適切にとらえて中枢に伝えるものが感覚器官である
心はこれによって目覚めさせられるとすれば
感覚はまさに心的活動の窓なのである

・知能化
一つの氷河期が終わるごとに脳のより大きな人類が発見されているので
「氷河期は人類の母」などといわれるが、環境条件の過酷な変化に
知的に適応しようと努めるごとに脳はより発達したのであろう

・万物は変わる
子どもは社会的活動に参加することによって、行動をしだいに時計の時間に
合わせるように訓練されてゆくものである。
それ以後、現代人はいつも時計の時間に規制されて
自分の主体的時間を調節しているのだ。
しかも物理的には現在はないが、我々の生活では現在こそが問題である。
物理的時間は恒常的変化を前提にしているが、
我々の生活はつねにただ一回切りの非遡及的過程である。
そして我々はそうしたときの流れの中に
自分の有限の生も営まれていることを知っている。
つまり、人間は生に始めと終りのあることを知りつつ生きている唯一の生物である

・心から精神へ
精神とはたんなる心的活動でなく、
「生の意味を自らに問いつつ生きる意識活動」であるからである。
知能的行動までは高等な動物にも見られるが、
精神的な行動は人間のみにみられる最も高度な意識活動である。
心(mind)しか持たない動物は現在の状況のみに意識が占められているが
精神(spirit)を持つ人間は現状を超えて生きる意味を探求し、
生活全体を歴史的過程として考えることができる。
そして自ら自覚的に生きようとする。
こうした精神は意識の進化の頂点を示す働きであるといえよう

・個性の実現
あらゆる人はその独自な素質と独自な生活経験との相乗積によって
その独自な個性を形成してゆくことがわかった。
これは好むと好まざるとに関わらない発達的事実である。
そうだとすれば我々はむしろ積極的に自分の素質や経験を生かして
よい個性を形成し、意図的に自分独自の生き方を展開してゆくべきであろう。
これを自己実現(self-actualization)とよび、そうしてこそ
個人ははじめてその独自な存在意義を獲得できるのだとマズローは言っている。
人間は自らの生き方を自らの意志で決めうる自主的な存在なのだから
それには自分の適性を最大限に生かせる道をえらぶことが
最も自由で正しいことに違いない。

結果よりも、自分らしくつまり自分の適性を精一杯発揮しようとして生きることが
自己実現の道なのである。
社会もそういう人を人間としてもっと高く評価するようにならなくてはならない。
評価が単に社会的視点からの業績主義や効率主義によってのみなされてる
社会では個性的な精神文化は育つことができない。

・幼子のごとく
親にとってわが子の最初の学習が、実に親自身のあり方の模倣であることに
気づくのは皮肉ともいえよう。
それは子どもをいかに育てるかということが知識的、技術的なことよりも
はるかに生活的、人格的なことであることを知らしめる。
親の生活とは親の人間的事実にほかならないから、
そこには必ずなんらかの問題性がある。
完璧な教育性を期待するほうが無理である。
そこで幼児の教育は意図的に教えることより
周囲の良い生活に幼児を自然に順応させてゆくのが最も望ましい。

・学習による発達
人間は自然の体力などより、長い準備期間中に
学習によって獲得し累積し得た能力、つまりこうして後天的に身につけた能力に
依存して生きてゆく面が非常に大きいということになる。
老年期などにいたったら、まったく過去のものの食いつぶしで
生活しているともいえよう。
まさに学習は人間の生き方の中にはじめから組み込まれ、
学習によって人間になり、学習した能力を使って生きるように
その生涯も経過しているのである。

<シュウカイドウは思い出の花です>