哲学の先生と人生の話をしよう 國分功一郎より

人間はものを考えたくありませんので
基本的に情報を選択的に吸収しています

思い込んでいる人間はこの選択が
より強くなっていて
周囲からの情報を極端に遮断します
そうでないと、思い込みを突き崩す
情報に晒されて
再び苦しい状態に戻ってしまうからです

さてこのことが意味するのは、
人によって周囲の環境から
吸収する情報の量は大きく異なるし
同じ人でも心身の状況次第でその量が
大きく変化するということです

情報の量が多くなると普通人間は
パニックを起こします
大量の情報を処理しきれないからです
ところが、どうやら他の人よりも相対的に
多くの情報を心身で受け取り
しかもそれが支障なく処理できている人が
いるようなのです

情報といってもどこで何売っているとか
そういうことではありません
いやむしろそういうことも含めた
ミクロな情報群のことです

前にいる全然関係ない人の顔色とか、
毎日会っている友人や同僚の精神状態とか
テレビでやっているどうでもいいCMの雰囲気とか
更には自分の体調の具合とか・・・・
そういう自分に与えられている情報を
他の人よりも多く受け取り
且つ無意識のうちにそれを処理できている人
というのがいるのです

運のいい人というのはそうした人
のことではないか
というのが先の仮説です

運がいい人というのはしたがって大量の情報を
無意識のうちに処理・計算しており
日常生活のうちに無数に存在する
選択の場面でそれが役立っている

つまり後に「ラッキーである」と思われるような
帰結をもたらす無数の選択を無意識のうちに、
そして不断に行っているというわけです

ぼくのこの仮説はおそらく正しいと思います
そしてこの仮説が正しいならば、
運は決して偶然ではないことになります

「運がいい」人はこれまで積み上げてきた
膨大な情報処理に基づいて
無意識のうちに適切な選択を
これまた積み上げている

「運が悪い」人は情報をできる限り
排するように生きていて
計算結果を積み上げていないため、
無意識のうちに行われている
無数の選択の場面で利用できる
情報のリソースが乏しく適切な選択が行えない

(少し前に「残念な人」という言い回しが流行りましたが、
それも多分このカテゴリーに入ります。
一生懸命だけど、いや一生懸命だからこそ
情報の受け取りを無意識に拒否しており、
計算結果を積み上げることができていないわけです
だから常に残念な結果に終わる)