社会意識の構造 城戸浩太郎より(1970年刊)その3

病める自我

不安は、ホルネイによると、抑圧された
敵意の必然的な産物である。
抑圧から起こる不安には2つのオソレがふくまれる。
愛を失うとか、罰せられるというような
その状況に原因する第1次的な脅威と、
自分の敵意の衝動をうまく制御できないのではないか
という連続的なオビエである。

つまり、敵意を抑圧しなければならに状況に置かれると、
人は(1)敵意を表明したいという衝動におそわれ
(2)もしそうしたらどうなるかを恐れ
(3)この両者の葛藤から、自己自身を
統御できないのではないかという第2次的な恐怖が発生する。

その人の自我そのものが恐怖の源泉として
不安のオブラートでつつまれるわけだ。

「ボク自身を破壊させるようなことを
ボクがしないということに、ボクは全然自信がない」

このように、社会関係が非人格化し、
人々どうしが敵意に満ちた冷たい戦争を繰り返している
<自由競争>の社会では、不安が
人々の心の奥底にしみこんでいく。

リースマンがレーダーで絶えず他人の反応を
キャッチしようとしている外部志向型性格の行動の
規制原理が不安であるといったのは、
このような精神分析的な理論と一致している。

ところで、現代人の自我の深層に
基本的不安が糸を張り巡らし、
そこで、抑圧された敵意がわだかまっているとすると、
もし第1の抑圧の条件、つまり愛情や承認を失うまいとする
衝動が働かないような状況に直面した場合には、
抑圧されていた敵意がセキを切って
爆発的に飛び出すことがある。

「理性的」だといわれる現代人が、
戦争などの特殊な場面で、野バン人も顔負けするような
残虐行為を平気で行ったりするのは、
こういう現代人の心理的構造にもとづく。

<ウグイスカグラノ小さな花が咲きました>