日本人はなぜ考えようとしないのか—福島原発事故と日本文化—

新形信和より その3

英語の1人称名詞の「I」は古代から一貫して使用されてきた、
と述べました
さらに付け加えますと、英語の「I」をふくめて
インド・ヨーロッパ系言語の1人称代名詞は
すべて同一の源に遡ることができ、同一の言葉が
何千年にわたって一貫して使用されてきたことが
言語学的に証明されています

これは日本語と比べてみると驚くべきことであると
言わねばなりません
日本語はそうではないのです
一人称代名詞に相当する日本語は歴史的に
めまぐるしく交替しており、決して単一ではありません
(辻村敏樹「敬語の史的研究」によれば、古代から現代まで
数えてみると「私」に相当する言葉は51あるということです)

しかも、日本語の自分を指す代名詞は、もとは何か
具体的な意味を持っていた実質詞から転用されたものです
いま標準語で使用されている「私」は、もともとは
「公に対して自分一身(だけに関する事柄」を
「僕」は「しもべ、下男」を意味する名詞でした
常にそのような実質詞から転用されて
自分を指す代名詞として使用されてきたのです

言いかえますと、日本語には古代から現代に至るまで
自分そのものを直接に指し示す言葉が存在しないということになります
自分そのものを指し示す言葉が存在しないから
歴史的にめまぐるしく交替してきたわけです

もちろん、このことは伝統的な日本文化において
ものを見る「わたし」の固定した視点が存在しないという
事実に対応しています
固定した視点を必要としなかった、ないしは拒否してきたのです

ものを見る「わたし」の固定した視点というのは、
哲学的な言葉で言い換えますと、主体(ないしは主観)となります
日本語は主語なしに文が成立するといいました
主語を必要としないのです

<ヤマブキの花が咲いていました>