日本人はなぜ考えようとしないのか —福島原発事故と日本文化—

新形信和より その6

早稲田大学教授の池田清彦が書いた文章に
次のような一節がありました

東日本大震災から2年が過ぎた
福島第一原発の事故の責任を誰も取らず
事故原因の追及もうやむやのまま
またぞろ原発再稼働への動きが活発になってきた
いつかまた大事故が起きても、やっぱり誰も
責任を取らず同じことが繰り返されるに違いない

コンビナートなどの工場で事故が起きると警察は
現場検証などの調査を行って原因を調べようとします
業務上過失致死傷などの責任を追及するためです

しかし福島第一原発事故では捜査は行われませんでした
なぜなのでしょうか
記事では「やっぱり」誰も責任を取らないといわれています
「責任を誰も取らず」「追及もうやむやのまま」であるというのです

あの太平洋戦争もそうでした
あれだけ大規模で悲惨な犠牲者を国の内外で生みだしながら
その責任を問うたのは戦勝国が行った東京裁判(極東国際軍事裁判)
などの裁判だけであり、日本自身の手で責任を問うことはありませんでした

日本人が行ったのは皇室の権威を利用して敗戦処理を行うために
総理大臣に指名された皇族の東久邇稔彦首相が
「一億総懺悔」というスローガンを掲げることでした
「一億総懺悔」というのは戦争の責任は国民すべてにあるのだから
一億の国民全員で懺悔しようというものです

そのようなスローガンを掲げることによって戦争の責任を
特定するのを意図的に避けようとしたのです
こうして日本人自身の手で戦争の責任を問うことなく
誰も責任を取りませんでした

なぜ太平洋戦争や福島原発事故などで誰も責任を取らないのでしょうか
その理由は第4章から第8章まででお話してきましたように
責任を取る主体「わたし」のありかたが曖昧で
明確なしかたで存在していないからなのです
主体「わたし」のありかたが曖昧であるということは
事故の責任を追及される側ばかりでなく
責任を追及する主体「わたし」の側のあり方も曖昧であるということであり
事故原因の追究もうやむやになってしまうのです

右の引用文で語られている「やっぱり」という言葉は
このような事態が日本文化に根差しているものであり
だから、日本ではいつもそのようになってしまうということを
表現しているのです

<シャクヤクが咲きました>