「市民」とは特定の誰かとして
実体的に捉えられるものではない
さらに重要なのは、今は不在の人々
つまりは未来の世代もまた
この「市民」に含まれるということだ
現在の社会的決定は必ずや
その世代を巻き込むのだから
その「未来の市民」にも思いをはせつつ
現在を生きる人々がこののち無事生き延びるのに
ふさわしい社会のあり方を構想し
その為にもっとも大事な課題は何かと考える
そういう探求を進んで担おうとする人々こそ
「市民」なのであろう
組織、そのもっとも大きなものとしての国家に
すべてを委託するのではなく
人々がみずから問題解決のための
コンテクストを作ってゆこうとする
その運動の「主体」として想定されるのが「市民」なのであろう
カントが「理性の公的使用」ということで言おうとしたのも
そういうことだと思う
<ほうずきの実がなっていました>