教育という病 子どもと先生を苦しめる「教育リスク」 内田良より その3

「学校化社会」の行き着く先

いじめ研究で知られる内藤朝雄氏は
「いじめの社会理論」の冒頭で
「問題は私たち自身だ」と指摘した。
学校のいじめ問題は日本社会の問題を
そのまま映し出したものである。
学校の外側はマシな世界だという前提をもってはならない

「学校化社会』という言葉がある。
哲学者のイヴァン・イリイチは学校的な価値が
制度に組み込まれた社会を批判的に考察した。

宮台真司は少し文脈を変えて、偏差値重視の
学校的価値が社会の隅々にまで浸透した社会をそう呼んだ。
そこに通底するのは学校の価値観が唯一絶対の力を
持っていることに対する危機感である

「学校化社会」という診断は、今日の日本社会を
実に的確に表現している。しかし私は「学校化社会」の
行き着く先として、別のベクトルが生じていることを
このところ強く感じている

「学校化社会」というのは、学校が影響を与える側で
社会(に生きる市民)はその影響を受ける立場にある。
だが、そのようにして市民が学校化してしまった時に
何が起きるだろうか。今度は、学校が自らを変革しようとしても
市民の側がそれを許さないということが起こりうるのではないだろうか

運動部での暴力事案が発覚した際、
教育界側が顧問に対して厳格な処罰を下す前に
顧問の寛大な処分を求めて数千、数万の署名を集めてくるのは
まさに学校の外部の「市民」であった。
教育界内部の自浄作用を、外界の側が思いとどまらせようとするのである
学校の変革にとって障壁となっているのは
内部の先生ではなく外部の市民である。

<フクジュソウも冬の花です>