金藤:
ありがとうございました。見方を変えて楽しめるということですね。
今度は門脇さん、佐藤さんにお聞きしたいのですが、今まではアートを見る場所は美術館とか、ギャラリーという感じのところだったと思うんですけれど、なぜ街に飛び出してきたのか。社会とつながったアートにこだわっているのでしょうか。
門脇:今回、伊万里焼のひろ埜さんのステキなお店の隣に空店舗があって、そこに私の作品を展示しているのですが、展示しているのは木と、それをもう一度そっくりにつくたものです。
私は以前、写実的な風景がを描いていて、それをリアルなものと感じていました。そういうのをつくったいたある時、宮城教育大の村上タカシ先生のアート・プロジェクトに出会い、仙台の一番町に作品を展示しました。そこでモノとしての作品のリアリティよりも、商店街の方とかかわりながら自分の考えた展示について説明し、賛同を得ていくことにリアルなものを感じました。
最初、説明に行っても、10分くらいずっと説明を聞いた後、何を言っているのかまったくわからないと言われたり、逆におもしろそうだからやってみようと言われたり。その時におぼえた感動というものは、自分ひとりで作品をつくっていき、それができた時の感動とはまったくちがった感動であり、その複雑さや豊かさは、比べようもないほどのリアルさだったんです。
そこでモノをつくる、アート作品自体が目的であるという姿勢から、アート作品がコミュニケーションツールで、コミュニケーションの方が目的、つまり、アート作品をつくるためにアート作品をつくっているのではなく、人とリアルにコミュニケートするためにアートをつくってるんじゃないかと最近、思うんです。
お店の方というのも、実はお金を得るためだけにご商売でモノを売っているのではなくって、お客さんと関わるためにモノを売ってる、と考えられるんじゃないか。逆にそう考えていかないと、誰も幸せになれないんじゃないか。モノをつくることから、関係性をつくることへ、私は移っていったわけで、それがアート・ウォークを行うことになったきっかけといえます。
佐藤:
ボクは作る個人の表現というのは、それぞれに物語があると思うんですが、それはそれぞれの表現に帰依する部分だと思っているんですが、建物にせよ場所にせよ、本来もっている目的というものがあるのあかなと個人的には思っています。たとえば、こちらの建物でいえば、銀行で、銀行という目的をもった建物だったと。場所にせよお店にせよ、何の目的ももたない場所や建物というものはないと思います。もともと何らかの目的をもっていた場所が、本来のその目的を失ったときに意味が変わってしまう。様々な表現者がそこにかかわることで、その場所の意味がまた変わってきたり、その雰囲気がかわったり、それから同じこのジュースでもテーブルの上にあるときと、屋根の上にあるとき、それから海の上に浮かんでいるときと、ある場所によってそこに感じるものというのはもしかしたら違うかもしれないし、その意味も変わるかもしれない。ですから、作品がそこに置かれることによって作品の意味もまたそこで変化するかもしれないですし、場所も意味や雰囲気もまた変わってくるかもしれない。そんなようなことが、それぞれの方の表現行為として、いろんな多様性をそこで見せることができるれば、見る方がいろんなことを感じていただけるんじゃないかと、そういう場所があるということが、非常にいいことじゃないかと思いますので、それを今、門脇さんからお話あったように、コミュニケーションのきっかけにされているとか、「あれ何だべね」みたいなところから話が始まっていきながら、やがてそれが見慣れたものになってくるかもしれないし、もともとの意味というのが変わってくるかもしれないし、また新たな意味がそこに出てくるかもしれない。そんなこととしていろんなことを考えるきっかけとして、作家がどんどんかかわってくるというのは、日常の中に入ってくる刺激物としておもしろいんじゃないかと思いますし、何より今まで見たことなかったとか、そういうことで感想もたれることがおもしろいんじゃないか。見たことないというのをみてもらうことから始まればおもしろいんじゃないか。中で作家さんが、今日来て終わりというんじゃなくて、期間中、何度も来て制作をつづけていたり、内容を変えたりということがあります。ご覧になったとき、それをつくっている作家さんがいたら、声をかけていただいたり、直接「これは何ですか」と聞いていただければ一番いいんじゃないかと思います。そこからコミュニケーションというか、お互いに、そこから話が始まればおもしろいかなと思っています。見て、「うーん」といって腕組してひかれると、お互いにひくと思いますので、はっきりわからなければわからないといって、何だと言っていただければ一番いいんじゃないかなと思います。