終点の間藤駅を降り、まずは足尾の歴史を辿ろうと、AAFのドキュメントを担当している下山さんからいただいた情報をもとに、古い製錬所の跡を訪ねることにしました。渓谷沿いのゆるやかなスロープの両側には、人気の無いまばらな家並みが続きます。道ばたの説明板には、銅山の景気が最盛期の頃、同じ場所が大勢の人で賑わう商店街だった様子を撮影した写真がありました。
霧雨の中、歩くこと20分ほど、やがて対岸の赤茶けた岩肌にへばりつくようにして、こつ然と大規模な工場の「廃墟」が姿を現します。うっすらと雨雲に包まれた緑深い山々を背景に、ごっそりと外壁が落ち、骸骨のように鉄の骨組みを晒した建造物、荒れた斜面を這う赤錆びた鉄のパイプ、川岸に立つ、不釣り合いに巨大なコンクリートの煙突など、周囲とはあきらかに異質な光景が目の前に広がっていました。
「まるで亡霊みたい・・・」と清水さん。
公害問題の原点とも言える足尾銅山の歴史を教科書などで知ってはいても、こうして実際目にすると、凄味のある光景にしばし言葉を失うとともに、日本の近代化・産業化につきまとってきた影の大きさを実感させられます。この「亡霊」から、ぼくたちは今でもすっかり解放されたわけではありません。近くの寺院では、鉱山で亡くなった方の眠る共同墓地を見ることもできました。その説明板では、かつて「友子制度」という親分子分の関係によって、鉱夫のコミュニティがまとめられていたことを知りました。これもまた歴史の影の一面でしょう。
なお、帰宅後に調べてみたところ、この工場は一部ですがまだ現役で操業しているそうです。(曽我)