今日の朝日新聞の耕論に書かれていた記事を掲載致します。
3年前に日本福祉大学で、デイサービスを利用されている
利用者さんのリアリテーの論文を書いた。
その時に出会った特別養護老人ホームの施設長さんと話をした事を
思いだした。
胃ろう造設に疑問を抱く医師のコラムを読んで感じたことを紹介致します。
かなり前の事です、介護保険が始まった時、介護保険制度にかかわった
先生の講演に伺った時からずっと心の中でクスッぶっていた感情が湧きあがって来た。
患者さんが余命短くなって来ても、医者はなんとかして生かそうと努力をする。
その行為が辛い事であって、本人が延命を拒否しても今の医学では治療をやめる事は
できない、止めてしまえば大変な事になってしまう。
人間の尊厳死ってないのでかと質問をしたが、いくら元気な時に話をして、それを認めてしまったら、罪になるとの事、長い間看病をしてきた家族は死を受け入れてもくれるが
遠くの介護に係わっていない親戚が訴える場合もあるのです。
それって病院、医者を告訴する事なんですか。さみしい世の中って感じたが
やっと、何年か前に尊厳死が認められたと思うのです。
名古屋の特養は利用者さんが食事を受け付けななったら、体は枯れ始めた兆候なので、看取りの部屋に移して見守りをするのですと言われた。
普通人間は心臓が止まったら死と感じと、食事を受け付け無くなると死ぬ準備
を始めているとは考えられないと思っていたが、
実際そうかも知れないと感じるようになった。
動物も自分の死期を感じたら、猫は死に場所を探し、誰に看取られないで
静かに息をひきとるて聞いた事がある。
コラムに登場している先生は、本人の意思が解らないのに少しでも長生きして欲しい
からって勝手に造るのは、家族のエゴにすぎないって書かれていた。
もし私がその様な状況になったら早く楽にしてあげたいと望む、
長く苦しむ親に接したくない、自分の前から親の姿が消えた時さびしい
でも何時までも親は心の中で生き続けてくれているからさみしくなんて無い。
両親を見送るってもう30年がたつ、母の無くなった歳に近づいても来た。
親のありがたみがやっと理解できる歳に近づいてきた。
ただ、両親に育ててくれてありがとうって感謝の気持ちがさらに強くなった。