10月19日(日) 地元長老によるシンポジューム(岡田博士とふさの歴史)
我孫子市近隣センター「ふさの風」に於いて、講演を拝聴する機会を得て
明治38年の日本とロシアにおける最後の決戦は、天気が味方していたそうです。
9月2日は気象学者岡田武松博士が亡くなった日(昭和31年・1956年)、心臓病のため、82歳でこの世を去った。「気象学の父」とも言われ、中央気象台長なども務め、郷土の偉人、岡田武松博士は我孫子市布佐の出身です。
日本の気象観測は明治8年、東京赤坂で気象観測が始まる。その前の年の明治7年に利根川沿いの現・千葉県我孫子市で生まれた武松に気象観測を抱かせたのは利根川であり、普段は、静かな流れであるが、ひとたび大雨が降ると氾濫し、沿岸の家や人々を飲み込んでいきました。そんな光景を何度も見ていた武松は、「天気が分かれば災害を防げるはず」少年のころから気象学を志すのでした。
明治32年帝国大学を卒業した武松は念願の中央気象台(現・気象庁)に就職。当時の天気予報は、全国のデーターを集めて等圧線を数本引いて、その等圧線から風向き等を想定し、経験と勘で天気を予想、そんな原始的な予想を後目に武松は独自の予想で、天気を当てていきます。そんな彼の名は思わぬところで、明治37年日露戦争始まる。この戦いは、日本海海戦時の天気予報を担当(当時32歳)実は、古くから天気が戦の勝敗を変えてしまった戦いは、これまで数限りなくあった。
天気図作成は、他の人と同じであるが、彼は気圧を入力し、「天気は気圧により変化する」ことを早くから見つけ出していたのです。低気圧の位置を確認し、天気を予想し
「天気晴朗ナルモ浪高カルベシ」の日を特定し、連合艦隊最高司令官東郷平八郎艦長に伝えられ決戦は見事勝利し、気象学者の第一人者となる岡田武松には、「勲六等旭日章」を受章するのでした。
尚、近隣センター「ふさの風」ロビーには、岡田竹松顕彰コーナーが設けられております。