塩竈での企画を振り返って

来月には、川崎けい子監督によるドキュメンタリー映画の上映会も企画されていることもあって、最近、やっと昨年7〜8月にやった宮城県塩竈市でのプロジェクト「もとまちアート海廊」のホームページを更新、やっと見られるような状態になってきました(こちら)。

以下は、企画を振り返ってのレポートの一部です(全文はこちら)。

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(…)「感動」なんて抽象的なものをと思われるかもしれませんが、「感動」のないところに人は投資しませんし、力も貸しません。本気でやろうなどと考えません。逆に「感動」があれば、人はおのずと集まってきますし、多少の無理を承知で手伝ってくれます。「感動」はお金では買えませんし、どんな品揃えがいい大型店でも売っていないからです。
その「感動」をともにつくりあげる仕掛けとして、私は「アート」を提案しています。
「アートは難しい」というようなことがまことしやかに言われますが、別にそんなことはどうでもいいのです。アートの専門家であるならまだしも、普通に生活する一般の方にとっては、それが「感動」を与えてくれるかどうかが問題であり、難しいかどうか、優れているかどうかなど、どうでもいい話なのではないかと私は考えています。
アーティストに「これは何なのですか」「ここでこれをやることが、塩竈とあなたにとってどういう意味があるのですか」と尋ねてみてください。もしきちんとしたこたえを得られないようであれば、そんなアーティストや作品など、街にとっては無用ものです。アートの専門家やアート好きの間で見せ合って喜んでいればそれで十分なのではないでしょうか。
別に流暢に自分の作品の意味やよさを説明できなければならない、と言っているのではありません。アーティストや作品から、それをつくる意味やすばらしさが伝わり、街に住むみなさんがそれをともにできるか、ということなのです。もし何人かにでも共感を得ることができれば、その人たちが、作者に代わってその作品について代弁してくれることでしょう。逆にそうした「代弁者」がいない作品は、この街には必要のないものなのだろうと思います。
そうして制作・展示されるようになったアート作品は、何よりも街のものになります。街の人々は「感動」しているからこそその作品を受け入れるのですから、必ずその「感動」は訪れた人にも伝わります。だから、街の人が「感動」できないような作品を展示してはいけません。そうした意味で、街の人とアーティストの間に、あるいは街の人どうし、アーティストどうしの間に緊張関係が生まれるかもしれません。しかし、それは真剣に街のことやアートのこと、より多くのみなさんのことを考えていく上では避けようのないことですし、真剣さゆえのことであれば、必ずや乗り越えた暁には、以前よりもいい関係が構築できているに違いありません。
そしてそのためには、街の人も作品や「アート」について、ある程度の勉強をする必要がありますし、アーティストにも街のことを十分にリサーチしてもらう必要があります。
専門的な知識は必要ありませんが、どうしてそういうものが「アート」として呼ばれ、つくられるようになったのかといった、自分たちなりの素朴な疑問は、アーティストを呼んだ勉強会を開くなどして解消していくべきことだと思います。そしてそれがお互いの信頼関係や、質の高い作品制作、街の文化レベルアップにつながると思います。

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門脇篤