中越沖地震1周年復興祈念イベント

−「明日にそなえて〜今、私達ができること」−

7月19日(土)いつもお世話になっております刈羽村で復興祈念イベントが開催されました。主催は刈羽村社会福祉協議会、後援は中越沖復興支援ネットワークです。10時から14時30分の予定で、午前中は「みんなで話そう!」というパネルディスカッション。午後は会場(刈羽村老人福祉センター)外で、県内社協有志による屋台、会場内ではバザーやAED・救急法講習会、そして、いつもの快援体の皆さんによるマッサージなどが行われました。村内外から多数の方々が参加され大いに盛り上がりました。

「みんなで話そう!」の案内役を渥美が務めさせていただきました。パネリストには、かりわ元気まつり実行委員長、民生児童委員、区長、刈羽村福祉ボランティア友の会の方になっていただき、さらに、刈羽村社協からはデイサービス管理者と災害ボランティアセンターの担当者が登壇してくださいました。案内役から自己紹介と流れを説明したあと、それぞれのパネリストにご発言頂き、壇上でのやりとり、会場とのやりとりを経て、最後は「明日に備えて、今、私達にできること」とは何か?ということについて、とても大切なキーワードを皆さんで編み出すことになりました。私としましては、いつもあたたかく迎えてくださる刈羽の方々らしいキーワードが出されたと思います。あの震災から1年。今できることは何でしょう?以下、ご発言のポイントを一部ご紹介した後に、キーワードを共有したいと思います。

○大変な地震だったが、イベントなどを通じて、気持ちを切り替えて頑張っていきたい。
○イベントは、楽しみのためでもあるが、人材発掘の場でもある。
○行政の対応は早かった。なるべく早く対応しようとする行政に元気づけられた。
○交流させていただいている塩谷(中越地震の被災地、小千谷市)の皆さんと一緒に震災の”先進地”KOBEに行ってみたい。そして、KOBEで被災された皆様と交流したい。しかも、塩谷の皆さんと一緒に行けば、道中もお互いに交流できる。
○地域で死者を出してしまった。自分自身も2004年の中越地震で半壊、また今度も半壊。
○一段落したら、地域のボランティアとして、村外からのボランティアの道案内をしたり、地域の地図を作ったりした。
○災害時要援護者といわれる人の情報を地図に落としたりしたい。
○いきいきサロンを通じて、日常からのネットワークを大切にしたい。
○今度何かあれば、ボランティアとして恩返しをしたいと思う。
○直後には地域の役員に集まってもらった。集めるのが大変だったが、集まってみんなで対応できたことはよかった。
○救援物資を地域に配布するときに平等に分けるのに苦労した。
○自分たちで道路を修理したり、交通整理をしたりした。
○一人暮らしの方々の家庭を訪問した。このことをボランティアに情報として伝えるとボランティアはそれぞれのお宅を訪問してくれ、色々なお話を聴いてきてくれた。これがとても役だった。
○こうした当時の対応をまとめて、次期役員に引き継いだ。
○最初に思ったのは、いつもボランティアとして関わっている子どもたちと一緒の時間帯でなくて良かったということ(休日だったので)。
○災害ボランティアセンターがあったから動けたと思っている。
○移動お茶の間を11月末まで続けた。被災された方々は、やはり、村内の人達と方言のままに話したいようだったし、この傾向は高齢者に多いと感じた。話の中で問題が出てきた場合は福祉担当の部署に連絡した。
○「ただお話していただけ」なのだけれど。
○連休の最終日の被災だったので、利用者は外出していた人が多かった。しかし、残っていた人々にすぐに救援が来たわけではなく、水も電気もない中で「きっと助けに来てくれるから」と励ますしかなかった。
○そのうち、「家が壊れた!ばあさんを頼む!」といっておばあさんを連れてくる人がいた。そして、次々と重傷の人が来られた。骨折されている方もいたが応急処置しかできなかった。もう野戦病院のようだった。
○福祉避難所という試みを続けた。今後のヒントになるかと思う。
○半年を経過したぐらいから、デイサービスを利用する方が多くなったように感じている。
○デイサービスは、住民福祉の拠点になるべきだと思う。そのための広報がさらに必要。
○子どもも大変だった。子どもの相手をしてくれるボランティアには助けられた。
○何も知らないままに災害ボランティアセンターなるものに出会い、戸惑った。
○NPOが力を貸してくれた。
○災害ボランティアセンターならば何とかせよという調子でやってくる組織や個人もあった。
○災害ボランティアセンターは数ヶ月で閉鎖したが、その後も傍にいてくれる人がありがたかった。
○塩谷との交流では、被災された方々の間で絆ができていることを実感している。仮設住宅での1周年イベントの際には、塩谷の方角へ向かって黙祷している方がいてジーンときた。
○岩手宮城内陸地震の被災地を訪問する機会があった。地元に53の福祉系団体があり、結束して対応されていた。そのことが外部からのボランティア受付をしなくても動けた理由だと思うが、地域によって様々であることを改めて感じた。
○ボランティアセンター事業を通して、前向きなネットワークを地域で形成していきたい。
○自分でできることは自分でやる気概を持ちたい。
○ボランティアと話すことは楽しいことだった。
○地域に「えびの会」を作っている。地域の河川にえびが戻ってきたから、これを食べるという会。実は、これは地域の担い手を集める会。中国四川の地震にもこの会から寄付をさせていただいた。
○友の会には、もっと気軽に入っていただけるようにしたい。
○外部から1泊2日で来てリーダーシップを採るのは無理だろう。私が中心になって行うと宣言してどんどん進めた。ただ、こういうことをするマニュアルもない。今後は、社協、行政、デイサービス、ボランティアセンターなどそれぞれ今回の地震を体験した人達が集まってマニュアルと作ればよいと思う。
○地元の人々はボランティアにすぐには馴染めない。
○今回は地域ごとにサテライトの災害ボランティアセンターを作った。ここでは、地元の人々との連携ができたところがある。
○地元の人達との連携を踏まえて、ボランティアセンター事業、イベント、講座などを進めていきたい。

質疑応答に入りますと、すぐに会場から手が挙がりました。仮設住宅に住んでおられる80歳の男性でした。その方は、仮設住宅の集会所に行くと自分にも声をかけてくれる、仮設住宅を歩いていると皆さん声をかけてくれる、このことがありがたい。相談できる人がいることの安心感を述べてくださいました。会場を埋めた50人以上の人々はみんな耳を澄ませて聞き入りました。

さて、色々な話が出ました。地震直後のこと、あれから1年でやってきたこと、考えたこと、これからやりたいこと。ここから見えてくることは、実は、会場からの男性のご発言に見事に集約されています。「明日にそなえて今できること」、それは、お互いを優しく見守り、声をかけ合うことではないでしょうか。イベントも交流も地域の活動も社会福祉協議会の活動も、すべては、住民の方々と声をかけ合うことから始まります。震災で甚大な被害を受けた方々が、目先の”防災”ではなく、こうした地域作りの根幹にすでに至っておられることに大きな感銘を受けました。

写真提供:神奈川県立保健福祉大学大学院 加納佑一様