★3月23日(水)
現地から2日目の活動を報告します。この日は、岩手県北部の被災地を訪れました。
(1)岩手県久慈市災害ボランティアセンター
この日、岩手県北部の久慈市に入りました。久慈市も津波の被害を受けました
が、幸い甚大なものではなく、この日まず訪れた災害ボランティアセンターも落
ち着いた雰囲気でした。同市のボラセンは久慈市役所に設けていて、社会福祉協
議会とは連携しながらも、社協そのものは前面に出ていませんでした(社協の建
物が避難所になったことが原因とのことです)。
久慈市での支援活動については、災害ボラセンとなっている市役所大会議室で
総合政策部まちづくり振興課、地域振興グループ総括主査の長根英俊氏から詳し
く教えていただき、あわせて、NVNADの経験についてもお話しました。久慈市ボ
ラセンは、3月18日に開設。19日より地元市民のボランティアを募集し、津波被
害を受けた地区での泥かき、搬出作業を中心に活動していました。あわせて、市
内の傾聴ボランティアが避難所の方々の相談に応じているとのことでした。私た
ちが訪問した23日は、62人のボランティアが活動していて、そのうち11名は、同
市からクルマで15分ほどの野田村(後述)へ派遣されていました。市民ボランティ
ア、特に、高校生ボランティア(久慈高校、東久慈高校)が活躍しているのが印
象的でした。
(2)岩手県野田村の支援へ!
渥美が訪問した久慈市からクルマで15分ほど南下した野田村の惨状は、目を覆
うばかりでした。エリアを区切って救命活動が展開されていました。川の中に家
があり、田んぼに船が裏返っています。村の中心街はかなりの水位の津波がきた
ようで、水害直後の様相。思わぬ所に思わぬ建物(の一部)があり、天地がひっ
くりかえったような空間になっていました。
野田村は、県外にはあまり報道されず、岩手県中心部からも遠い地域です。旧
南部藩として青森県八戸市や岩手県久慈市とのつながりが深い場所であることも
念頭に入れて、県域を越えた近隣からの支援、そして、遠くからの支援を急ぐべ
きだと感じました。NVNADでは、今回の訪問でその仕組みを整えて、すぐにでも
動き出します。
防波堤の海側に行くと、この村に生まれ暮らしているという男性がいらっしゃっ
たので話しかけてみました。「番屋が流された。何もかも失った。自分は脳梗塞
で左手が動かない。今は年金生活。生まれ育ったこの街が好きだし、このままこ
こで生活していく」とのこと。
津波で壊滅した住宅地のへりに家、倉庫、倉が残っていました。そこに84歳の
おばあさんがいて、道の掃除をしておられました。話しかけると「地震を感じた
ので、津波が来ると思って、すぐに(高台に)逃げた」と、即座に応えが帰って
きました。今は、実家で過ごしておられます。ボランティアはまだ来たことがな
いとのこと。「この辺の人はみんな自分で頑張っている」と、ぽつりと言われま
した。頑張るにも限界があります。ボランティアが動ける場面です。
後ろ髪を引かれる思いで今度は野田村役場へ行きました。社会福祉協議会も隣
接していましたが、浸水被害に遭って、使えない状態。そこで、役場の入り口に
机が1つ置かれ、そこが、災害ボランティア関係の受付でした。役場職員、村社
会福祉協議会職員が1名ずつ受付をされていました。
役場の方によりますと、救命救助活動がエリアを限定して行われており、そこ
へは立ち入り禁止。まだ、電話も不通、ネット環境もないので、何も発信できて
いないとのこと。現在は、市民の団体、久慈工業高校の先生と生徒、久慈市から
のボランティアなど近隣の団体しか来ていないし、団体しか受け付ける余裕がな
いということでした。11カ所の避難所運営、巡回(さらには、今後の仮設住宅、
国民宿舎での対応)など理解はできていても、動ける状態にはありませんでした。
社協の方によりますと、社協は会長と職員3名。全国的な動きは知らないので、
軽米町の水害の経験を聞かせてもらって動いているということでした。避難所に
は保健師がいるが、それ以上のことはできていないそうです。昼と夕方は、役場
入り口にパンと水、フルーツを出して対応。自衛隊の炊き出しもあるとのこと。
一番大きな問題は、情報の不足ということでした。
その後、災害ボランティア受付の後ろで資金相談を担当されていた岩手県社協、
盛岡市社協の方々とも話しました。この数日を見ている限り、現地社協に「災害
ボラセンを開設しましょう」とはとても言える状況にはないということでした。
現状では、地元社協職員にすべてが集中していて、とにかく休んでもらえるよう
に努めるしかないので、できることを手伝いながら、地元社協職員をそっと助け
るだけで限界だと感じてこられたそうです。それでも災害ボランティアセンター
を開設した方が良いのかという問いには、「災害ボラセンが目的ではないのだか
ら、地元社協の方々が倒れないように何とか助けてあげて欲しい。ボランティア
は、災害ボラセンがなくてもできるし、活動すべき現状にある」とお応えしまし
た。
あちらこちらで、受け入れ体制(具体的には、災害ボランティアセンター)が
整備されたとか未整備だとか言われています。でも、災害ボランティア活動は、
災害ボランティアセンターがなければできないでしょうか?そんなことはありま
せん。現地で大きな余震が続く中、まだ人命救助一色のときに、多数のボランティ
アが、十分な準備をせずに、片道のガソリンだけでばらばらと現地に行くと、確
かに危険でしょうし、ご迷惑をおかけすると思います。しかし、そんな時にも被
災された方々は苦しまれています。行かない理由を考えるより、行くための準備
と工夫を考えるべきだと思います。野田村では、自分たちできちんと活動できる
なら、ボランティアができることがいくらでもあります。
そこで、NVNADでは、野田村支援を急ぐことにしました。具体的には、西宮、
青森、岩手県内北部、それぞれの場所からボランティアが現地に入って活動でき
るよう、“北からの支援”をより具体化する仕組みを急ぎます。
この日は、野田村をいったん去って、久慈市が拠点になる場合に必要な情報を
集めるために久慈市を再訪し、夜には、八戸市の方々と具体案を検討し、さらに、
三沢や弘前の方々を念頭に、NVNAD事務所と案を詰めていきました。近々動き出
します。
(3)田老町
矢守は、野田村から、クルマさらに1時間半南下。途中の小さな集落にも、津
波の被害で出ていることを確認しながら、昔から「津波田老」と称されてきた岩
手県田老町に至りました。田老の南に位置するのは、宮古市。宮古までは、仙台、
気仙沼方面から、大船渡や釜石を経て海岸沿いを北上するか、もしくは、盛岡か
ら陸路を東西に横断してアクセスするルートがあって、マスメディアにも比較的
よく登場します。
他方、今回訪問した田老町以北の岩手県三陸北部から青森県太平洋沿岸は、今
回の大震災でもっとも光が当たらない被災地となりつつあります。私たちとして
は、そうした地域にこそ支援を行いたいと思っています。これが、「北から」戦
略です。
さて、明治、昭和の三陸津波、チリ津波で大きな被害を受けた田老町は、全長
は約3キロ、高さ10メートルに及ぶ大津波防潮堤、通称、「万里の長城」を海岸
沿いにめぐらせた町として著名です。この万全と思えたハードウェアだけでなく、
津波情報の整備や避難訓練にも力を注いできました。ところが、この町で、数百
人もの犠牲者・行方不明者が出てしまいました。今回の津波は、鉄壁と思えた
「万里の長城」を易々と乗り越え、その一部を完全に破壊して市街地を襲ったか
らです。大きな犠牲はもちろん、これまで他の地域以上に津波の危険を意識し対
策を練り、それを拠り所にとして海とともに生きてこられた方々は、さぞかし大
きなショックを受けておられるとお察しします。防潮堤の上を歩くと、津波に濡
れたアルバムや文集などを干しておいてあるのが目立ちました。「このアルバム、
取り出しておきましたよ、関係者の方はどうぞお持ちてください」。救援活動に
あたった方が、そんな思いで堤の上に置かれたものでしょう。
NVNADの「北から」は、まずは、野田村に向かいます。しかし、近いうちに、
さらに南下して、この田老へと至りたいと願っています。