前回(3月30日〜31日)参加したメンバーから届いた被災された方の声を一部お伝えします。

・まち歩きであったおばあちゃんたち
お店を経営。被災して「屋根があっただけでもまし」と。店舗の中はきれいに片付いていた。「でも何もない」といって、役場から物資を持ってきていた。結構な重さを2人で運ぼうとしていた。現在は、久慈の知人宅に身を寄せる。茶碗も自分のやつ洗って同じものを使うように気を使う。「そうはいえないけど、気兼ねするね」といっていた。

・地区の住民
野田村は「財産があるので」活気があった。町村合併しなくてよかったといっていた。
地域には高齢者が多いが、在宅で援護が必要な人は少なかった。地震は、今までに体験したことないほど揺れたので、その後自分の車で、要援護の人や子どもの施設などを見て回った。ある施設では、行ったときにはすでに避難を始めていた。徒歩で避難所へ向かっていた。それを確認して、ほかの要援護の家に。中には、なかなか逃げたがらない人も。隣の人が無理やり連れ出したという例もある。自分自身も今から考えると間一髪だった。
野田の産業は漁業・農業(米・ほうれん草)・出稼ぎ。野田塩が有名だった。市街地は、野田塩の関係もあり、沿岸部から広がる。
今回被害のあった地域には立派な家がたくさんあった(ほとんど、流出)。
愛宕神社は、150年ぐらい前から。鳥居も2500万円ぐらいかけて立てた。氏子の組織が強いということはない。8月23~25日には大きな祭りがある。
神社の縁日もそれにあわせて変更してもらった。実施主体は、商店会など。
祭りでは、よさこいを呼んできたり、みこしの好きな人たちがみこしを担いだりなど、かなり盛大に行っていた。村外からも多数きていて、久慈の祭りと並ぶ賑わいだった。盆踊りも、1500人ぐらいが踊る盛大なもの。久慈に大きなショッピングセンターができているが、かつてはそれほど影響はなかったが、不景気なり、客がそちらに流れるようになっていった。道が悪いので車のパンクが頻発しているらしい。

・ 野田村の会館にて
西宮から来たこと、みなが心配していることを告げる。祭りの話などするが、まだ、そんなこと考える感じではないという様子。どうすればよいか先が見えていない感じ(2階の窓の外から見える風景は一面瓦礫)。