昨日、新潟県小千谷市を訪問しました。先月の東日本大震災後、2回目となります。

小千谷市には、昨日の時点で、200名を超える方々が福島県から避難されています。もちろん、地震・津波の被害と、その後の原発事故に伴って、自宅から遠く離れた土地での生活を余儀なくされている皆様です。

小千谷市では、最初、そうした方々を、一般家庭に受け入れました。「民泊」と呼ばれる小千谷市独特の方式で全国的にも大変稀な試みです、もちろん、これは、中越地震を通して被災の苦しみを十分理解されている自治体ならではのもので、被災者の方に少しでも温かな家庭の雰囲気を味わってほしいという気持ちから考えられたものです。その後、被災者の方々は、中長期的な生活場所を準備するまでの期間、いったん大規模なスポーツセンター施設に移られました。そして、現在は、一般企業の社員寮(2箇所、数十名ずつ:2次避難所)と、公営住宅(数カ所18家族)で生活を開始されています。

今回、私たちは、福島からの受け入れ当初(3月18日夜のことだったそうです)から、被災者をずっと見守り、市職員やボランティアさんとともに支援活動にあたっておられる小川晃さん(小千谷市復興支援員)にご案内いただく形で、2箇所の避難所(社員寮)を訪れました。そして、何人かの被災者の方とお話をしました。

2箇所の避難所は、かつての、あるいは現役の企業社員寮ということもあり、居室のほか、食堂、風呂・トイレなど生活のための施設はよく整備されていました。子どもの遊べる部屋には本、遊具、テレビが置かれてあり、図書室もありました(本は市立図書館から持ち込む予定)。また、ご近所には、ちょっとした散歩を楽しめるような場所もあって、その点は、被災者の方も安心されているようにお見受けしました。市職員やボランティアの方も、それぞれ熱心にサポートをされていました。

私たちは、いずれの施設でも被災者の方数名と、談話室や廊下、施設の玄関先など、できるだけ、ごく自然な形でお話をうかがえるようにしたつもりです。もちろん、小川さんのアレンジで、ときには、居室にまでお邪魔しました。被災者の皆さまは、比較的に穏やかな落ち着いた様子でお話くださいました。しかし、時折あらわれる表情や言葉の端々に、家族や仕事(田畑)を奪われた悲しみや、いつ帰れるかわからない遠い故郷を心配する気持ちがあらわれていました。みなさま淡々と話してくださるのですが、どのように言葉をおかけしてよいかわからない気持ちでした。

他方で、被災者のみなさんが、小千谷ならでは「民泊」を大変喜んでおられた点には、少し救われる気持ちになりました。中越地震、中越沖地震の折りにNVNADから支援させていただきその後も関係をもたせていただいた小千谷のみなさんが、すばらしいホスピタリティを発揮され、それを福島のみなさんが喜んでおられるのは、まさに被災地つながり、被災地間つながりだと思いました。

少し具体的に紹介します。

<2次避難所からの声>
最初に訪れた避難所には、原発事故から逃れて南相馬市から来られた63名の方々がいらっしゃって、1歳、4歳、7歳、9歳のお子さん(2家族)があり、80歳以上の方が9名、車椅子の方が2名でした。個室になっていますので、部屋に閉じこもってしまわれると心配です。そこで、食事の際に、食べたらチェックする表が用意されていました。4月22日の昼食から、食堂で委託業者による食事が提供されるとのことで、業者の方々が準備をされていました。この3日間で立ち上げた2次避難所ということで、市職員が関わっておられましたが、いずれは、昼に職員、夜はシルバー人材センターの方々がいわゆる管理人を務め、運営そのものは、すでに作っておられる班ごとに役割分担して行われると伺いました。

ここでは、あるご夫婦を居室に訪問しました。92歳の女性と心臓に病のある男性。実は女性の方も心臓が弱いとのことでした。南相馬市より3月17日にバスで避難されました。男性のカルテはきちんとファイリングされ、早速、地元の魚沼病院に通院されているとのことでした。ただ、バスの臨時停留所を利用しても、結構遠いので、何とか、福祉タクシー券をもらえるように手配しようということになりました。実は、お話ししていると、先日、一時帰宅の際には残っていた家が、その後火事になって燃えてしまったとのこと。原因はよくわかりません。「類焼せずに済んだし、津波ですべて失った人もいらっしゃるから・・・」と淡々と仰る姿はあまりに痛々しく、「小さな家だけどずっと働きつづけて建てた家なのに…」と目を伏せられると、私たちも言葉を失ってしまいました。
 
こうしてお話しさせていただけたのも、案内していただいた小川さんの築いてこられた信頼関係があったからですが、さらに、ここには、避難されてきた方々を毎日毎日訪ねて歩いておられる地元小千谷の女性がいたからでした。Tさんは、3月24日以来、ずっと関わってこられ、避難者のお一人お一人と信頼関係を築いておられます。中越地震の時に、ボランティアさんに助けていただいたから、恩返しです、とのこと。今後、NVNADからボランティアさんが小千谷に向かうときには、是非、お目にかかってご一緒させていただけるようにお願いしました。

<もうひとつの2次避難所からの声>
次に訪れた会社の寮(2次避難所)では、数人の男性が談話室におられました。農業をされていた男性は、「やっと田圃を大きくして大きな機械もいれたのに全部流された」と話して下さいました。他に、「津波で何もかもなくなって、片づけることすらできない」、「原発が憎い。あれさえなければ、こんなことにならなかった」といった切ない声がありました。一方、「民泊では大変お世話になった。あれはいい」と笑顔を見せて下さった方もありました。後で伺いますと、ご家族全員を亡くされた方もいらっしゃるし、市職員の息子さんが行方不明のままという方もいらっしゃるとのことでした。

最後になりましたが、小川さんが被災者の皆さんと築いてこられた信頼関係に敬意を表したいと思います。私たちのような突然の訪問者にも、被災者の方々が時間を割いてあれやこれやお話をしてくださったのは、小川さんはじめ現地でずっと被災者支援にあたってこられたTさんなど小千谷の皆さまとの信頼関係あってのことだということが、今回あらためてよくわかりました。

NVNADとしても、小千谷の地で被災者を支えておられる皆さまを後方からバックアップし、あわせて、間接的であれ被災者のお役にたてるように具体的な方法—見守り活動をお手伝いするスタッフの中長期の派遣、避難所で中長期的に必要とされる日用品のご提供、避難所から病院、買い物等のためにお出かけになる際の交通手段に関する支援など—について、現地のみなさまとともに考えていきたいと思います。「これからが始まり」という印象を持ちました。