第***回 講演予定 ”大家族社会の意識・運命共同体”

日本一の斜坑 延長 2740m、傾斜15度、到達深度 700m
坑口で人車に乗り込む風景

炭坑の思い出
目次
1. はじめに
2. 奈落へ落ちる石炭産業とは
3. 大家族社会
4. 新鋭機械の導入と賃金体系の改変
5. 現場の配置図
6. 奇人・蒼天子(先輩 I 氏)のこと
7. 中央指令所勤務時代

1.はじめに
 四国生まれの農家の倅が、まさか炭坑から始まるとは?
昭和25年(1950)筑豊炭田の西北端のニッタン高松炭坑へ就職した。
国鉄宇野〜高松航路で紫雲丸が沈没したときだった。門出の荷物の到着が一ケ月も遅れた。(荷物といっても布団と作業着と下着数枚程度)、いっそ荷物が海底に沈んでいたら「すっきりした」と思う。以後の人生は「死運丸」で「死にもせず」である。

2.奈落へ落ちる運命とは
 北九州の石炭層は、層の厚さが1m〜3mで板状に存在する。また傾斜は10度~20度ぐらいである。所によっては2〜3層が重なっている。
採掘は通常、浅くて、輸送距離が近い、地圧や湧水が少ない;掘りやすい場所から始まり、年月とともに、深くて遠い区域へ移行する。
 だから、あらゆる面で困難が累加して、採算性は悪くなるのである。

・石油との価格競争
日本の石炭産業は、昭和30年(1955年)以降、合理化の嵐が吹き荒れた。
それは石油の値段が安かったのごが一因であった。
 1973年 : 第一次オイルショック。第四次中東戦争により原油価格は約2〜3ドルから10〜12ドルに上昇した。1978年 : 第二次オイルショック。この年のイラン革命、1980年のイラン・イラク戦争(タンカー戦争)を機に価格が30〜40ドルまで上昇した。(%笑う男%)

昭和33年(1958)当時
地下700m深度の中央操作場・操作パネル
軌道回路(レールの一定区間)に車両があることを操作盤に表示すするシステム

3.大家族社会
 全社宅制 会社経営の病院、幼稚園、共同風呂
 買い物は 社営の配給所 (現在のスーパー、コンビに)
 住宅費・燃料費; 家賃 1円、石炭費 10円
 娯楽設備 社営の映画館、クラブ 
 会社の用地境界から、一歩も出ずに生活が出来た。
 電話;各区域ごとの労務課の事務所、社員社宅は課長宅以上

特別免除区域;=換気の良好な区域で、
ガス爆発の危険が無いと認定された区間

防爆型8トンジーゼル機関車が運行している
通常は、バッテリー電車を使用するが、
牽引力の強いジーゼル機関車を採用した。

採炭現場の発破用・穿孔作業

3—1)会社の組織・身分
 炭鉱の組織・身分は、次のようになっている。
 職員 — 所長 — 次長 — 課長 — 係長 — 係員 
 工員 — 坑内夫 — 直接夫 — 採炭夫・・・・・能率給
掘進夫・・・・・ “
支操夫・・・・・ “
 間接夫 — 運搬夫・・・・・固定給
軌道夫・・・・・ “
保安夫・・・・・ “
電工・・・・・・ “
機械工・・・・・ “
-— 坑外夫 

3−2)賃金体系の改変
 木製柱、木製梁、簡易V型コンベヤーの時代は、直接夫の賃金体系は、
 「100%の能率給」だった、能率給計算の基準(標準作業量)は、非常に
 低いものだったので、機械化に伴って、大幅にUPした。
 日給賃金の計算方法は、 
 グループの採炭量(トン/日)÷(基準値×グループの出面人員数)=%
 本人の本給(資格給与)×当日の成績×%=当日の個人の賃金
 機械化が進むにつれて、故障時間が増えて、賃金が安定しなくなってきた。
 その都度、故障の原因を調べて、損害補給金額を計算することに困難した。
 そこで、(半固定+半能率)賃金方式を採用を労働組合に提案した。すなわち
本人の持給(本俸)の半分を固定給にし、残りの半分を出来高スライドにした。
 この改革に対する意見は、不安一色だった。
 「固定給だけ貰って、頑張って能率を上げようとしなくなる」のでは?
 機械化資金の投入が無駄になるのでは? などの危惧する意見が多かった。
 新賃金制度のPRで、会社は、
 「お弁当を作って送り出した奥さんに先ず1000円差し上げます」、
 「お父さんは、残りの1000円を倍にするように働いてください」と。
 
大家族社会の意義
 炭坑社会は全社員社宅制で、大事故があっても操業を続けてゆく運命共同体であ り、「会社に対する信頼感」が基本にある平等な社会である。
 泣き言を言わない自立の気風が横溢していたので、能率を競って働いた。
 労働組合も会社の方針をよく理解した。

3−3)経営収支・売り上げUP
 大家族社会は格差がない社会であるから、お互いが快い生活を享受したかと言うと、そこには大きな課題があった。社員8000人の家族が食べてゆける稼ぎの確保であることは言うまでもない。
石炭の売り上げ増加と利益率のUPの方法として、
①単価のUP;家庭用(着火が容易な袋詰め中塊炭)の採取と販売
②低品位の石炭の市場開拓・・・・低品位火力発電所の建設
③廃棄物(ボタ)の処理・・・・・洞海湾と玄界灘の埋立権を取得した。
 石炭を能率よく採掘するには、発破による破砕と運搬方法の機械化であったが、この方法では、粉炭が多くなり、中塊が取れない。 
 そこで、発破の方法を研究して粉炭化を抑えた。運搬の過程でショックをやわらげて粉炭化少なくした.
家庭の主婦の手を汚さないように、合わせて着火が良いようにパラフイン・コーテイングをした。
この結果、袋詰め炭の販売単価が約2倍になり、低品位炭の販売も経営に大きく寄与した。

(%怒る男%)(%怒る男%)(%怒る男%) 奇人 I 氏こと (%怒る男%)(%怒る男%)(%怒る男%)

奇人・蒼天子 ( I 氏のこと)
私は、入社から2年間、日本能率協会の応援に配属になった。
昭和27年に本部の工務課に配属になった。I氏はその時の上司(係長)である、確か昭和17年秋田鉱専、三原市の生まれだった。
一般に職員は 入社後3〜5年間は掘進現場の係員を勤め、5年後から採炭現場の係員になる。10年ぐらい経過すると係長になるか、間接の仕事に就くか、本部へ転勤になる。
採炭現場の坑夫の在籍人数は一箇所70人で就業人数は50人ぐらいである。
採炭係員だった頃のI氏は、坑内着で「奥さんの真っ赤なスカートを纏った」ことで有名だった。採炭現場は温度30度以上、湿度は100%に近い。
 坑内に入る際は、坑口で安全管理上の厳重な服装の検査が行われる。タバコ所持のボデーチエックが行われる。 スカートの良し悪しは規定に無かった。
I氏は、「スカートは涼しいよ、スコットランドの衛兵は皆スカートだ」と言う。

I 氏は空手3段で剛柔流の師範格、早速空手道場を開いて弟子を募った。
私は、剛柔流の図解テキストの作成を命じられた。
山の神さんの境内に練習場が設けられて、エイエイオーの掛け声がこだました。
 
 蒼天子とはI氏の俳号である。10年簡に3千句を作った、一日一句が目標だと言う。彼の先生が「告天子;ひばり」だから、「蒼天子;ウグイス」と言うところ? 
「えぶり・クラブ」;の部屋を借りて句会が開かれた。
そこで、自慢の一句はと尋ねたら、ちょうどクラブの玄関の広場の向かい
の小高い山があり、山の端から満月が昇った。 
「前山は、黒く名月、大いなる」。

会社は合理化の最中で、労働組合との折衝が続いていた。工務課が団体交渉の際の会社側の前衛の役割をしていたので、かなりハードな職場だった。
I氏の周りは小康の日々を送っていた。
明けて昭和28年3月5日は、スターリン暴落の日だった。
経済界は大きく揺れた。
 I氏の嘆きの一句「雪卍、,飛行機㈱を、投げようか」。