広島国際平和会議の次の日は平和記念資料館へ行ってきました
関西進出2年目の私は生まれて初めて
一人旅ということもあって思う存分時間をかけてまわりました
衣服、建物、ビン、時計、木、爪、人影の痕・・・
モノ言わぬ“モノ”達の放つメッセージの多さ
ここでは、当時そこにあったすべてが目撃者としての役割を担っている
「担わされてしまった」という変えられない事実
モノそのものは戦争を「良い」も「悪い」も言わない
どう受け取るのかは、この眼次第。
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右の写真は核実験実施国に対する抗議文の数々
核実験が行われる度に新たに増えていっていました
こんなにも多いものかと胸が詰まる
貼り加える時の悔しさ、恐怖、愚かさ、怒りは一体誰のものなのか。
日ごと変わる世界情勢が今もここに反映されている
生き続けている資料館なのだなと思いました
ここはまだ平和記念資料館じゃない。平和祈念資料館なんだ。
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原爆が落とされる前、広島のまちは軍用施設が増え、
軍都としての色が濃くなっていった
そのおかげで経済的にも潤っていた面もある
国を支えるまちとしての誇りも抱いていただろう
そのようなまちづくりが結果的に原爆投下を招いた一因になったとも言える
しかし、もちろん、だからといって原爆投下が許されるものではない
決してこの原因と結果は結びつけて考えるべきものではない
それは全く別の問題だ
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広島のまちを歩いていて感じたことがある
「ここは祈りのまち」 と。
平和を訴え続けるという一貫した態度
それがこのまちにあふれていた
このまちを尊く思うのは、
すべてを受け止めて、そこから自分達の役割を見つけ、訴え続けていること
今回海外から来たノーベル平和賞受賞者3名は皆何度も口にしていました
「広島のみなさん、人類の過ちに赦しを与えてくださり、ありがとうございます」と。
確かにこのまちは決して復讐の念は抱かなかった
原爆投下の事実を受け止め、受け入れ、赦し、行動している
過ちから役割を見つけ、それを果たそうとするこのまちの想いを壊そうとしているのは
むしろ今の日本の世論
「戦争を招かぬ国づくりを本当にやっているか?」
聴こえてくる。
原爆投下を招いている渦中にある人々は、その事実に気付かない。
そんな当時の広島のまちの雰囲気が、今の日本に広まることの無いよう、
私達は目を覚まし続けなきゃいけないんだ。
戦争の無い世界のために出来ること。
いっぱいある。
いっぱいやろうと思った。
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