「モンゴルに立つ」 河崎 かよ子
午後9時を過ぎたというのに空はまだ少し明るみを帯びていた。下に見えるウランバートル空港の滑走路は、周囲が白っぽい帯状のものに取り囲まれていた。川かと思ったが塀のようでもあり、それが何とも不思議なものに思えた。モンゴルの第1印象である。
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ウランバートルで国立教育大学の卒業式の会場に行った。入り口の前はかなりの人ごみで、まるで結婚式のように派手に着飾った女性たちが記念撮影に余念がなかった。そのドレスの形と色彩に何となく違和感を覚えた。たいていのアジアの国ではどこか違うとは言え、日本のセンスに似通ったものを感じるのだが、ここではそれがない。文化の根っこが違うのではないかと思った。その人ごみを歩いて、モンゴル人たちが立派な体格の持ち主であることに気づいた。背が高いし肩幅も広くてたくましい。日本の相撲界にモンゴル人がたくさんいるのは、モンゴル相撲もあるけれどこの体格と無関係ではなさそうだ。
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ハラホリンへ出かけた。草原は緑でただただ広く丘の起伏もゆったりしていて何と気持ちがいいことだろう。畑などというこせこせしたものはその気配もない。遠くに色さまざまなテントらしきものが見え、多くの人が動いているのがわかった。やがて行われる競馬の30キロレースの会場準備だという。子どもたちが競う遊牧民にとって最大のイベント、話には聞いていたが、その遠い話がいとも簡単に目の前に現れた。ここはモンゴルだった。
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ハラホリンの手前で小高い丘の上から遠くエルデニ・ゾーを望む。平原の中に四角く塀で囲まれた仏教遺跡、1235年チンギス・ハーンの息子のオゴタイ・ハーンがここに都を建てたという、その遺跡だ。なぜここに?ウランバートルからの遠い道のりを思った。草原を縦横に駆けまわる騎馬軍団の姿が目に浮かぶ。これは、モンゴル帝国の遺跡なのだ。ここから西へ西へと行くとカザフスタンに入り、さらに進むとウクライナなどヨーロッパの国々に出る。ヨーロッパとは地続きなのだ。彼らはここから世界制覇の旅に出たのか。
それにしてもエルデニ・ゾーだとかガルバン・ゾーだとか、地名が何ともいえずチベットくさい。チベット仏教だから当然だとは思うが、地図で確かめてもチベットとはかなりの距離がある。が、寺院の中はチベットの寺院とまったく同じスタイルだった。エルデニ・ゾーの寺院群の中にゲルが一つあり、それは地域の人たちが坊さんに拝んでもらいに来る、生きている寺院であるのがおもしろかった。
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ハラホリンでも途中のレストランでもウランバートルでも、食事のあとのデザートにチョコレートが出されることが多かった。どこから来たのか?文字を調べるとたいてい3〜4か国語書かれていて、アルファベットに交じって必ずアラビア文字が見えた。日本ではこんなチョコレートは普通お目にかかれない。ヨーロッパから来たものにちがいない。
ウランバートルに戻る途中、空港を遠い山の斜面に見つけて最初の疑問を思い出した。そうだ。あの塀は放牧された家畜たちが滑走路に入らないためのものだったのだ。
歴史博物館に行った。チンギス・ハーンの軍隊の矢が展示されていた。矢じりが結構大きいのには驚いた。これがかつて鎧かぶとの武士たちに向けられたものか…歴史を反対側から見る。
ようやく私は自分がまさにモンゴルという地に立っていることを実感できるようになった。日本から見ると、モンゴルは韓国の向こうの中国のさらに奥、ゴビ砂漠のかなたの荒涼とした辺境の地。だが、そこはまぎれもなくアジア大陸の真ん中にあってロシアと中国に挟まれ、中国からは東アジアの文化がロシアからはヨーロッパの文化が、はるか西の国からは西アジアの文化が直接伝わる土地なのだ。かつて頑強な馬を駆使してチンギス・ハーンが巨大な国をつくりあげたのもうなずけるし、それが今なおモンゴル人の誇りとなって生きているのもわかる気がした。
モンゴル人は誇り高い民族であった。ハラホリンで赤い民族服を着て歩く年配の女性に出会った。写真を撮らせてと頼むと、鷹揚にうなずいて表情も変えず頭を高く上げてこちらに体の向きを変えた。その堂々たる態度には圧倒されるものがあった。