『浜の真砂(まさご)は尽きるとも、
世にポイ捨て人の種は尽きまじ』 ???
(石川五右衛門の辞世の句とやらを一部借用して)
先日、朝の挨拶運動の帰りに
「末成すみれ公園」に立ち寄った。
写真の様に東屋(あずまや)近辺にゴミが散乱している。
飲料用の紙パック、菓子袋、
タバコの空き箱まで含まれていた。
近くにゴミ入れ用の缶を備え付けているのに
中に入れないで投げ捨てた状態だった。
この行為は誰が判断しても
社会ルールを無視した反社会的行為だ。
連中はこの行為がルールに反することは知っていると思う。
敢えてやるのは、
①缶に入れるのが面倒くさい、
②ポイ捨て行為をすることで社会に対する反抗心を示す。
③小さい頃からポイ捨てに対して
家族や周りの人が注意しなかったから、
習慣に近い状態になっていて無意識にやってしまう。
以上、何れかに該当するのではないだろうか?
一方、大人のタバコの吸殻のポイ捨ても無くならない。
人が見ていないと小学校正門前でも平気で捨てて行く人が居る。
特に吸殻の多い所は信号待ちの場所。
あちらこちらに禁止の看板が目立つが、これは美観を損ねる。
ポイ捨てする人とそれを回収したり、嘆く人との戦いは永遠に続くのか?
皆さんはどうお考えでしょうか。
中国に性善説(孟子)と性悪説(荀子)がある。
『人は生まれつきは善だが、成長する段階で悪行を学ぶ』と説くのが性善説、
『人は生まれつきは悪だが、成長する段階で善行を学ぶ』と説くのが性悪説。
私は寧ろ生まれつきは生きる為に自己中心的思考で正・悪など考えない。
その行為の結果は、周りの人に善と判断されたり、または悪と判断される。
そして成長していく過程で、
家族、周りの人、教育、マスコミ、読書、環境などから
後天的に種々な知識を習得する。
物事に対する行為は当人のその時の心境によって決まる。
善の気持ちの強い人は善行を
悪の気持ちの強い人は悪行となる。
「善行、悪行の度合いは、その人が身に付けた知識から
出来上がった判断基準に基づく結果だ」と思います。