13日13時〜広場円卓会議ー倉橋滋樹さん講演レジュメ前半 続きは視聴覚室で

宝塚市立西公民館 倉橋滋樹 館長講演レジュメ (前半先出で掲載)
「宝塚ホテルの歴史的価値と存在」ー詳細を一小視聴覚室に聞きに来てください!

 現在の宝塚ホテルが建設される以前から宝塚には西洋文化を受け入れる土壌があり、明治24年ごろには、神戸の居留地から近隣に足を延ばした外国人の一人、ウィルキンソン氏の手による「宝塚ホテル」が市内の、現在の梅野町あたりにあった。

 そして明治の終わりごろには日本ホテル宝塚出張店が、現在の宝塚大劇場近くの武庫川べりにあり、大正2年発行の宝塚案内誌の地図には、これら2軒のホテルが載っている。

 明治から大正へと変わる中、明治も末期の43年に開業した箕面有馬電気軌道の経営者小林一三は乗客の誘引に、宝塚新温泉、宝塚パラダイスと近代的な装いの娯楽施設をオープンさせて行き、パラダイスの余興に「宝塚少女歌劇」を始めて、大阪の市民を宝塚に誘った。
 宝塚少女歌劇団の可憐な少女たちの歌や踊りは、大正デモクラシーと呼ばれる社会の風潮や第一次世界大戦に伴う経済の活況の中で一躍人気を集め、宝塚の名は東京でも知られるようになっていった。

大戦景気で繁栄する中、大正7年に箕面有馬電気軌道は阪神急行電鉄と名を変え、同9年には神戸本線と伊丹支線とを開業している。翌10年に、西宮北口・宝塚間の西宝線(現、今津線の北口以北)が開通すると、従来の大阪方面からの来訪者に加えて、宝塚は芦屋や灘、神戸方面とも直結されることになった。
市域では大正11年に宝塚運動場が完成し、同13年には宝塚運動協会が成立した。
 
 また、歌劇の舞台だった宝塚公会堂劇場が大正12年に火災に遭ったが、翌年には4千人収容の宝塚大劇場が完成、東洋一の規模のホールとなった。
 
 関東大震災によって、東京方面に経済的、文化的被害が出たのと対象的に関西の発展が進み、宝塚もその潮流の中で阪神モダニズムと称される傾向に進んでいった。

さらに、兵庫県が進めてきた武庫川の河川改修事業も下流から順次実現し、
大正14年には甲武橋から仁川までが完成して、宝塚は近代的住宅地として発展する条件が着々と整えられていった。

 こうした中、阪神間を拠点に活躍した古塚正治の設計によるファザードが象徴的なモダニズム建築「宝塚ホテル」が大正15年5月に阪急今津線の宝塚南口駅前に誕生した。

 1920年代から1930年代にかけて、モダニズムが展開されていき、文学や芸術から、建築、そしてライフスタイルまで、全ての人々に影響を与えていった。
とりわけ、時代の中で新たなものに敏感な宝塚は、その影響を最も享受した都市であると言えよう。

昭和4年に出された『近畿景観』の中で、毎日新聞社の記者であった北尾鐐之助は、「この土地の草分けで、同時にまた大地主である平塚嘉右衛門氏は、いつか私に語つて、宝塚のすべては「モダーン」の一語に蓋きる。阪急の小林一三氏と提携したとき、すべて世の中の尖端を行かうではないか。モダーンだ。徹頭徹尾モダーンだ。その外には何もないと云つたのが、今日の宝塚だといふのである。」と記している。

モダンの先端に位置した宝塚が、時代も昭和へと切り替わる大正の末年に、誕生した宝塚ホテルは、単に建造物であるというだけでなく、訪れる人々のライフスタイルに合った、余暇の過ごし方、服装や持ち物にも影響を与え、そしてホテルを接点とした交流の場として存在し、発展していった。

第2次世界大戦中、そして戦後は宝塚ホテルは苦難の道を歩みます。
倉橋さんの講演をライブで是非聞きに来たください!