少し前だけど、家族ぐるみのお付き合いをさせていただいているクライアントさんがいてそこのおばあちゃんが亡くなられた。
それはもうまわりのみんなが分かっていたことであり、実際には本当に長い間いのちをつないでくれていたのだけど、しかしながら、亡くなってしまうと、こんなに早く、か。という気になる。
僕は、あまり生きる死ぬという概念には振り回されたくない、と心がけている。死後の世界とか魂とか熱心に論じる割には、信仰心もなく、実際のその形があるとは思えない。
ただ、それはこの世界とはまったく別のロジックでどこかに存在しているが、我々が、我々の尺度でしか物を捉えられないので「ない」ということになるのだと思っている。
お棺の中の表情というものは生きている時のそれではない。つまり、僕はそこに何も感じられない。
涙がでるとすれば、その人と自分との思い出や、関係や「その人にもう会えない自分」が哀しくなるのだと思う。
喜怒哀楽、特に思い切り泣けるひとを羨ましく思い、それをロジックにかけることを非難されることもあるけれど僕は今回ひとつ何かを見たような気がした。そのひとを欠いた哀しさはリアルだけどぼくはとてもポジティブでいられる。
亡くなった人の心はどこにいくのか?そういった問いに。
その家族や、親しくした人やそしておばあちゃんを尊敬していたすべてのひとたちの中に、少しずつそのこころはカット&ペーストされていた。そのひとの必要な部分だけ、すこしづつわけっこされて、みんなの中に追記された。
そうやってわけっこされて、こころの元データはすべて消えた。
僕はお通夜の日、お棺を包む、家族を包むおおきな何かをみたような気がした。部屋いっぱいに広がって、すごくあたたかい、やさしい、そんな気がする空間。
そして小雨の降る葬儀の中、僕は、そのおおきなものをどこにも感じられず、景色はグレーに見えて、しかしながら、お棺の前に立つ家族や、志を同じくした我々一同のこころの周りに、その断片がすこしづつ、その人の色と混ざっていくのを感じたように思う。
僕は、霊が見えるわけでもスピリチュアルな人間でも何でも無いと断っておかないと、文章の意味があらぬ方向に曲がるのはいやだから、はい、断っておくけれど。
僕がその風景をみた事実を、どのように捉えてもらっても構いはしない。ただ、このように思った事実は、とても僕の気持ちをポジティブにさせて、あたらしい概念を生んだのだった。