「場」というのは、ここ最近ボクが考えるテーマのひとつである。
場の話は今回少し置いておいて
その「場」においてどのような「役割」を担うのか。
それが次の意識として持ち上がって来たキーワード。
しょっぱなから話はそれるけれど、
ここ最近ボクは「アーティスト」や「絵描き」と捉えられる事が多い。
しかし、ボクはそのフリをしているだけであって
アーティストや芸術家の類いではない。
結果的にそう捉えられているという事は
作戦としては成功であるが…
ボクは、ボクが関わるいくつかの「場」において
アートを普及したり見せたりする「役割」を担う。
しかし、ボクはアーティストとしてではなく
『「アートを使って場を賑やかにする」という企画』として
この段階では企画デザイナーとして役割を担うのである。
また、テーマを設定したり、調整を行ったりもする。
その段階ではコーディネーターであり、ディレクターでもある。
さらにボクは自分はデザイナーでもなく
コーディネーターといっても”通訳”に近い仕事をしている実感がある。
そして自分の企画をこなすために、デザインもアートも
ぼくにとっては方法や道具のひとつなのだ。
本題。
ここ数年、様々なプロジェクトや企画に関わりながら
ぼんやり考えている事を書き記そうと思う。
人がなぜ「働くか」という問いである。
みんな、会社に入ると担当の仕事に就く。
自営業であれ、ボランティアであれ、
仕事のなかには自分の「役割」がある。
仕事でなくても、飲み会を開けば、幹事もいるし、
宴会部長や鍋奉行はどこからともなくいるわけだ。
なかには、それが自分に向いていないのに
無理矢理あてがわれる人もいるのだろうけれど、
それでも役割をこなすことで、毎日は十分平穏を保つものだ。
しかし、何にも役割をあてがわれない人も出てくる。
また、自分の考えで「役割」から飛び出す人もいる。
そしてこの役割のない状態に長く居座れるほど
神経の図太い人はなかなかいない。
辞めざるを得ない状況や、次への転職をめざし
また、独立や人生における余暇を考え「役割」を辞めた人が、
実際には自分の目標が定まらず
「役割」がない状態を長く続けると
再就職もままならなくなってしまったりする。
「自分の存在する意義」がそこに何もないからだ。
人は、仕事を求めているのではなく、「役割」を求めている。
「役割」がなければ、存在が破綻してしまうのだ。
すべてがそうとは言えないが、多くがそうであると思う。
かくいうボクは若い頃3-4ヶ月ほど家に閉じこもってしまい
「役割」を忘れ、外にでるのは本当に苦労した。
仕事をはじめるのには、さらなる苦労を要した。
神経症をわずらったときも、この「役割」を見失ってしまい
いまだに、エンジンのさびがとれない気分だ。
そういった状態にならないために、
人間は家族をつくり、社会をつくるのではないだろうか?
仕事をしたり、学級委員を決めたりするのではないか?
自分はどこそこのなになにです、というアドレスを得る事で
その存在を安定させ、心身ともに心地よくいられる。
誰にも見られていないウェブサイトはますます更新がとどこおり
アクセスの伸びるウェブサイトはますます洗練されていく。
同じ事である。
企業の中では、会社や社長と個人のつながりは見えにくいが、
各部署やプロジェクトのメンバーとして、
何かしら自分の「役割」は見えやすいようにできている。
これこそが、人の行動力を生み出す仕組みだと思う。
会社を辞めて独立したり、
作家のようにして仕事をやっていこうとするとき
自分が何の「役割」をになっているか急にみえなくなってしまう。
どこへ泳いでもいい自由と引き換えに、海そのものを手に入れてしまう。
よほど強い意志、もしくは楽観性(鈍感力)がなければ、
大海原で希望をもって泳ぎ続けるのは至難の事と思う。
例えばリタイアした後や余暇にボランティア活動に取り組む人は
自分が「役割」を担うことにどん欲で、健康的であると言える。
健康的すぎる、とも言えるが。
そしていま、多く人が精神を破綻させる原因は
この「役割」を見失うことにあるのだろう。
近所付き合いはなく、競争もない、大量生産、大量廃棄で
良いもの悪いもの、高いもの安いもののバランスが完全に崩れて
仕事をしても、自分が何かをやったという価値を得にくく
プロジェクトは乱暴にすすみ、やっつけ仕事は増える。
目標をもちなさい、という人がやりたくもない目標を勝手に決め
夢をもちなさい、叶えなさい、という人がやたらとお金に口うるさい。
そりゃあ、そうなるよ。
と感覚的にボクは思うのだけれど。
なにか解決案、代案をださないのはボクのポリシーに反するので
一つの仮説だけ、立てようと思う。
今、社会や経済の話題には、
CSRや寄付、NPO、社会起業、地場産業そういった話題が多い。
やり過ぎの環境問題など、ボクは一線置きたいが
個としての人が「地球」や「世界」「社会」というものの
構成要素として「役割」を担っているという動機付けがあり、
これから増えるユニバーサルな生き方への
心身のケアとなり得る、
自己の存在を保つ上で非常に有益な価値観である。
これは、相互に作用していて、
裕福になった社会における経済活動の方向性、という面を持ちながら
複雑化して希薄になっていく人間関係の中で
「役割」を見いだすために、社会が人が、生み出した防衛策。
そう言えるのではないかと、思っている。
今目の前にある、かたづけるべき問題だけではなく
もっと大きなセカイの「役割」をになっているのだと
間違いなくそうなのだ、と感じてほしい。
そう考えている。
余談。
一つの役割を離れても、
社会のために何ができるか、
町のためになにができるか
そのためには、
家族のために、こどものために、
自分のために、
何ができるのか?
自分はどんな「役割」を担えるか?
そう思えること。
より高い意識に対して目標を掲げる事は、
同時に
より深く自分自身を突き詰めることとなる。