2001年3月、僕はパソコン教室の先生をしながら
卒展のファッションの展示役していた。
なぜ僕が?というぐらい、僕は目立たないひとだったのだけど、
なんでか引き受けた。
しかし、この役目が僕の人生の分岐点になるなどとは夢にも思わない。
むいていたのだ、ひとのあいだをとりもつ仕事が。
それを気づくきっかけになったのである。
結構がんばった。
先生みんなが、「作品もそれぐらいやればよかったのにね」って言った。
終わった事はもう知らん。
そして卒展も終わり、卒業やら新生活やらにあまり感動を覚えない僕は、
これまたそつなくパソコン教室で働く事に。
「様子だけでも見に来てください」と事務の女の子に言われ、
行くと「はい、じゃあ、今日この人来るんで、お願いします。」
「あ、そーですか、わかりました…」って言う感じで
話が違うぞ…でも困ったときは、勢いで乗り切る。
「この問題やってみてくださいねー」とか言いつつ、
すかさず、答え&操作の方法をチェックして、
「ここねー間違えやすいんですけどね、実は…」
という風な最低な事を2ヶ月くらい続けた結果、
検定の試験担当までやるようになった。なんとかなるもんである。
そのころ、バイトで大学のPCのメンテを頼まれるようになる。
あと、健康食品の販売をしている人と友達になる。
世に言う「うさんくさい商売」なんだろうけど、
僕はあんまりそういうの、はなからは疑わない。
自分の目で見て、耳で聞いて確かめる。これが鉄則。
ぼくに声をかけて来てくれた人は
その後も公私ともにお世話になってとてもいい人だった。
でも他の人はみんなキライだった。
うその笑顔、うその笑顔、うその笑顔。
でも、壇上でプレゼンする成功者は、本当の笑顔のような気がした。
それか、本当の笑顔をシゴトでつくれる人なのかもしれないけど、
ボクはそれはよいことだと思う。
しきりに勧誘してくる他のひとたちは
きっと成功できないままやめていくんだろうなぁ、と思った。
一緒にセールスはしないが、セミナーなんかにくっついていくと、
業界話やら、裏話やら、社長さん達とお話ができるので
おもしろがってしょっちゅう顔を出した。
このときの経験は「自営業」するにあたってすごく役にたっている。
雇われている人と、事業をしている人とは
基本的に違うチャンネルで物事をとらえている。
善し悪しを語ると主観的になるのでやめるが
「一般人の知り得ること」はとても狭いと思い知らされた。
そのころは、お金がなかった。
とにかくもうこれ以上無理だ、となったころにある人と出会う。
印刷関係で困っているらしく、なんぼでもやりますよ、と
安請け合いした僕が大バカだった。
電話が鳴りまくり昼夜問わずパシらされるわ、
留守電にようわからん事で怒鳴り散らすわ、
深夜に呼び出されては、朝までシゴトさせられるわ…
内容も訂正した原稿を元にもどせ、その原稿を持っていくと、
直と言うてない、とか、やっぱりそれはやめるとか。
そんな事が本当に延々と続く。
前の日に掘った穴を次の日に埋めるような毎日の中で、
ちょっと僕の回路がショートしだした。
ある日、靴を履こうとするとお腹が痛くなって。
携帯にでることができなくなって。
お金はもらえたけれどボロぞうきんのようになった僕は、
なんとか理由をつけて、いろんな事をリセット。
コレ以来、携帯の着信は今でも大キライだ。
そしてほぼ無収入になった。
なんにもやる気がしない。
カードで金を借りて、なんとか食いつなぐ。
もう、クリエイティブのかけらもなくなった。
飼っている猫だけが優しい。
それでもなんとか落ち着いてきた頃、
ポップ出力のバイトをやり始めた。
とにかく、大量にやってくる原稿を減らしていくという仕事だ。
打って、出して、切って、貼る。
しかし、僕には癒しにも感じられたのである。
ある日、向かいのファッションビルをぷらぷらしていると、
学生の頃よくしてもらった雑貨店のオーナーがたまたまいるではないか。
何年ぶりかの再会を懐かしんでいると、
「もしよかったら、今度、力仕事とか手伝ってくれない?」
という話しになり、快諾。
と言った日から、あれよあれよという間に、お店にも立つ事に。
「、やっぱデザインとかで飯くっていきたいよねぇ」
という話しになり、
「今度一緒に営業にいこう」
「営業は…自信ないですけど…」
「もし断られてもさ、そことは縁がなかっただけだから。それに、自分に自信もってたら、その人にはわからなかっただけってことだからさ」
これは、この後ずっとボクを支えてくれる一言だった。
僕はこのひとが大好きなのである。
周りにいるひとを元気にさせる。いつも前向きで、辛い顔をみせない。
人をまとめる立場にいて、まったく気をつかわせない。
僕は何にもできなかったけど、くっついて、デザイン事務所なんかをまわっていった。何回目かでいただいた求人広告とかチラシづくりとか、
カラぶきそうきんだったボクに急に水分が降り注いだのである。
こういう仕事は、純粋にはクリエイティブじゃないかもしれない。
でも、自分の技術を生かして仕事ができるということは、
こんなにも楽しい事だったか?
寝ていた時間と起きていた時間がひっくり返った。
朝バイトに出勤、そのまま向かいのビルで雑貨の店番、
お店を閉めて印刷会社に移動、徹夜作業で朝まで働いて、
そのままダイエーに出勤、昼からお店にでて、閉めて印刷会社に…
なんかもう、ようわからん事になってきた。
40時間起きて、8時間寝るというむちゃくちゃな生活の中、
チラシの仕事なんかも個人で引き受け、
日銭やら差し入れのお菓子を食べながら生き延びた。
意外とこれくらいで死んだりはしないもんだ。
借金苦で、もう無理だと思った事もあったけど、
まあ考えてみたら、借金なんて今はそのときの3倍ぐらいある。
最初はなんでも、おおげさに考えるもんだ。
しかし、正直、慣れはコワイので借金はイカン。
デザインの仕事もすこしづつ軌道にのってきたころ
大学から声をかけていただいた。
コンピュータ室管理のシゴトのお話だった。
この一年を考えると僕なんかでいいのかと思った。
しかしこれは迷った。本当に眠れないぐらい迷った。
けれど、そんな僕を選んでくれている事にたいして断りたくない。
まだまだ勉強もしたかったし、
僕は何かを教える仕事はずっとやっていきたい。
正直なところ、まだ端々がぞうきん状態だったぼくには
「人生の猶予」もほしかった。だから大学で働くことに決めた。
とても言いにくかったけど、オーナーに報告すると
「本当におめでとう、よかったね」と言ってくれたのである。
ますます大好きになる。
そのうちまた合流する時が来ると思いながら
大学仕事がスタートしたのである。
続く。