僕ね、理屈っぽいんです。
実はめっちゃ理系なんですよ。
だから、「説明できない」ていう状況にブチあたると
すぐイライラすんの。
そう、実はすっごい短気やの。
でね、そういう風にイライラすんのが嫌やから
証拠とか、原因とか
どうしてそうなるのか。
どうしたら説明つくのか、とかにね。
むっちゃくちゃこだわってしまう。

例えば言い争いになると
いいとか、悪いとかじゃなくて
どうして言い争いになるのか
なんでモメなきゃいけないのか、その原因はなにか
そういうのがすごく気になって
ケンカを長引かせたりしてしまう事もある。

老荘思想にはこういう言葉がありました。
「知るものは言わず、言うものは知らず」
「善者は弁ならず、弁者は善ならず」
と。

僕も、いつも気をつけてはいるけれども、
とにかく人はすぐ
「でないといけない」とか
「にしたほうがいい」とか言う。

極端な事を言うと
「このラーメンうまいからくってみろ」
というのは、本質的には
あまりにむちゃくちゃな注文である。

どうしてそれが「うまい」と言えるのか
あなたのうまいと、僕のうまいが同じだと
どうしていえるのか、なのだ。

ちなみに普段からそんな事は思わないよ。
でも、「考えて」しまう。

あるひとが、自分の経験をもとに、こうしなさい、
という事が、すごくむちゃくちゃな事だと
いつも思うのである。
この場合の経験とは
作業の方法やノウハウではなく、人生経験だ。
それを、話して聞かせることは
すごくいい事だと思う。

「僕はこうだったから、このやり方が一番いい」
「一般的にこういう風になってるからこうして」とか

それは、すごく邪魔です。
それを聞く事によって
若者は、こどもは、あたまが濁るんだ。
やめてほしい。

じゃあ、僕の意見が正しいか?
そんなことないだろう、と僕はいつも自問自答する。
だからせめて自分を疑ってほしい。

人ひとりの経験は、そのひとの経験でおわり。
人は、1本の道を生きて、死ぬ。
その道のりを見せる、聞かせる事はおおいにしてほしいが、
道をだれかに食い込ませてはいけないだろ。

あなたと同じやりかたで、
ぼくが幸せになれるというなら
その証拠をしめしてくれ。

みんなよくこうしたら楽だとか
こうしたら安心だというけど

すくなくとも僕にとって「幸せ」である事は
「納得できている」事とイコールだ
んでもって
幸せはやってくるもんじゃない、つかみとるもんだ。

という僕も、相当傲慢だなと
やはり思ってしまうニョロ。