平成21年9月1日(火) 夏休みが終わり、 兵庫県芸術文化協会の主催する 「ふるさとの歴史講座」 が再開されましたので、参加してきました。
講師は今回も茨木一成氏が担当されました。
今回のテーマは明智光秀、「敵は本能寺にあり」と言って、主君信長を討ったのは皆さんご存知のとおりですが、光秀がそこまで追い込まれた理由を学んできました。
清和源氏の支流、明智光綱の家に生まれる。青年期は斉藤道三に仕えるも、1556年道三と義龍の争いが起こり、義龍に明智城を攻められ一族は離散する。
その後、従兄妹の信長の正室(濃姫)に頼り信長に仕えた。
そして、1569年頃木下秀吉らと共に京都近辺の警護に付く。 そして義昭と信長対立の際は義昭と袂をけって信長の直臣となった。
1575年頃比叡山焼き討ちや、石山本願寺闘争、信長に背いた荒木村重や松永久秀などを次々に攻め落とした。 この頃には光秀は織田家では、無くてはならない重要な家臣になった。
しかし光秀は、自分を取り立ててくれた主君を討ち滅ぼしたため、謀反人として歴史に名を残した。
その原因は次のように思われる。 信長から下戸の光秀に酒を度々強要された。
また京料理で接待した時には、塩辛い味を好む信長は、薄味の京料理を腐っていると因縁を付け捨ててしまった。
信長は短期かつ苛烈な性格の為、光秀に非常な仕打ちを行ったのは事実のようです。 しかし自分を浪人から救ってくれたのは信長です。 家族の事も少しは考えて行動して欲しいというのが結論でした。