秀吉との男の約束を果たした 「宇喜田秀家」

平成21年11月18日(水) 午前の部、午後の部で実施。
場所:宝塚市男女共同参画センター
主催:みれん歴史歩こう会
 元亀3年、備前岡山の宇喜田直家の次男として生まれる。
 そして6歳のころ、父が病死していまいます。天正10年
織田信長の力により家督を継ぐ。その年、本能寺の変により
信長が死去する。このため秀吉と毛利輝元は和睦する。
 秀家は備中東部から美作・備前を領有する大大名となり、
同時に毛利家の監視役にもなった。後の元服の時には、秀吉より「秀」の字をもらい秀家と名乗った。
 天正17年、前田利家の四女豪姫と結婚。慶長3年秀吉は死に際に、秀頼を後継にするよう五大老に頼む。しかし徳川家康や、それを快く思わない一派との主導権争いが激しくなり、慶長5年関ヶ原の戦いが起こった。その時は西軍として戦うが戦に破れ、落武者となってしまいます。
 その後、薩摩の島津義弘を頼って落ち延びる、しかし島津が秀家を匿っているとの噂が広がり、慶長8年、家康の許に自首をする。そして、なんとか死罪だけは免れ八丈島にに流罪となった(総勢12名)。八丈島では、加賀藩の援助も受け、50年程生き延びることが出来ました。
 また家康の死後刑が解かれたが、秀家は島に留まった。秀吉に対する忠誠心がそうさせたのかも知れません。