日 時 平成22年2月10日(水)
場 所 宝塚東公民館
講 師 直宮憲一氏(日本考古学協会会員)
戦国武将・荒木村重の末っ子として生まれ、後に絵師として
大成した岩佐又兵衛(勝以)の数奇な運命とその作品の数々
についてご説明をいただきました。
まず父親の村重ですが、丹後八上の豪族・波多野氏の一族
でしたが、下克上の戦国において摂津の国主にまで出世します。
一時は信長の配下として重用されますが、一説によれば石山合戦時に部下が兵糧を敵に横流ししたとかで信長の叱責を恐れ毛利方に寝返るも、激しい攻撃を受けて、有岡(伊丹)→尼崎→花隈→尾道と逃れ、結局毛利家に保護を求めています。
この逃避行時に何と「抹茶茶碗(茶道)」と「鼓(能楽)」を肌身離さず持っていたとかで、この事からも文化の造詣が深かったことがうかがえます。
一方 又兵衛は有岡城落城時に乳母に託されて西本願寺に逃れ、しばらく京都に滞在しますが、この時に本格的に絵を学んだそうです。
その後福井に移り、松平藩に絵師として仕えて、豊満な美人画像の典型を生み出し、浮世絵のルーツとも言われるまでにその画風を高めました。
晩年は将軍家光に招かれて江戸にも赴いています。
その間「山中常盤物語絵巻」等、今日の重要文化財クラスの作品を次々と生出しました。
又兵衛は武家に生まれましたが、内に流れるものは正に芸術家の血であったと思われます。