戦国時代の水軍総督 「九鬼嘉隆〜白洲次郎への道のり」

平成22年5月19日(水) 午前の部、午後の部で実施
場所:宝塚市男女共同参画センター
主催:みれん歴史歩こう会
 天文11年、志摩国英虞郡の九鬼山城主康隆の持ち城である
波切城で、九鬼定隆の次男として生まれる。
 志摩の国衆の一員として身を起こし、織田信長・豊臣秀吉の
お抱え水軍として活躍し、3万5千石の禄を得た。こうした
経歴とその勢威から、江戸時代には軍記物などで海賊大名の
異名をとった。天正6年、本願寺を支援する毛利水軍を討つ為、鉄張り軍艦の建造を信長から命じられ、大艦「鬼宿丸」他200艇を建造した。6月25日、紀州の一向一揆の拠点である斎賀浦で激戦ではあったが、敵将を誅殺して味方に大勝利をもたらした。
 しかし、後の関ヶ原の戦いは西軍に味方、敗れて城が見える寺で「自刎」した。
 また、江戸時代には志摩国鳥羽藩から九鬼久隆が3万6千石で三田に入り、廃藩置県までの240年間、九鬼氏が三田藩を統治した。
 また心月院は、1633年から移設され、九鬼久隆がこの地にあった梅林寺を増改築して開きました。そして、吉田 茂の側近で、戦後の政財界で活躍した信念の人、白洲次郎の
父が三田藩の儒学者であった関係もあり、白洲次郎・正子の墓所にもなっています。
 会場に行くまでは、なぜ海賊大名と白洲夫婦が繋がっているのか不思議でしたが、祖父の力があったのが分りました。