仏と日本人 「唐招提寺と鑑真和上」

平成22年6月4日 (金)夕方の部で実施
場所:県民会館
主催:兵庫講座 2010
講師:西山 厚 (奈良国立博物館学芸部長)
 唐招提寺は、南都六宗の一つである律宗の総本山です。
多くの苦難の末、来日を果たされた鑑真和上は、東大寺で
5年を過ごされた後、新田部親王の旧宅を下賜されて、
天平宝3年に、戒律を学ぶ人たちの修行の場として道場を
開きました。「唐律招堤」と名付けられ鑑真和上の私寺で始まった当初は、講堂や新田部親王の旧宅を改造した経蔵、宝蔵などがあるだけでした。金銅は8世紀後半鑑真和上、の弟子の一人であった、如宝の尽力により、完成したといわれています。
 また鑑真和上は唐の揚州に生まれ、14歳で出家し、洛陽長安で修行を積み、713年に故郷の大運寺に戻り、江南第一の大師と称されました。天宝元年、第9次遣唐使船で唐を訪れていた留学僧・栄叡、普照から、朝廷の「伝戒の師」として招聘を受け渡日を決意。その後12年間に5回の渡航を試みて失敗、次第に視力が弱くなりましが天平勝宝5年、6回目にしてついに日本の地を踏まれました。
 なぜそのようにしてまで、鑑真和上を呼ぶ必用があったのか。それは我が国の律令制度が崩壊するのを防ぐためでした。天平時代は超インフレで庶民の生活を脅かしていました。苦しみから逃れる方法は僧になることでした。しかし僧になれば、厳しい「自誓受戒」が待っていますが、高僧がその特権を利用して金品を自分の物にし「自誓受戒」を行わない僧が増え、社会問題になりました。
 来日された鑑真和上には想像以上の威徳があり、日本の高僧達も従わざるを得なかったようです。
 歌手「谷村新司」の超有名な曲「すばる」は鑑真和上の人生其のものを歌にしたそうです。