関が原の人々 「石田 三成」

平成23年4月12日(火) 午後の部で実施
場所:明石市男女共同参画センター
主催:(財)兵庫県芸術文化協会
講師:茨木一成氏(日本歴史学会会員)
 今回は、関が原の戦いに関係した人々を、10回の予定で
勉強致します。関が原の戦いは、安土桃山時代の慶長5年
9月15日に、(美濃国不破郡関が原)を主戦場として行われた
決戦を中心に、日本全国で戦闘が行われました。その結果、
徳川家康の覇権を決定付けた戦いでもあります。慶長3年、豊臣秀吉は死に際し、子の豊臣秀頼を後継とし、その補後見役を前田利家・徳川家康等の五大老や浅野長政・石田三成等の五奉行に委託を行いました。秀吉亡き後は、徳川家康を中心とする一派と秀吉の遺言を守ろうとする一派との間で主導権争いが激しくなりました。
 三成は若い頃から、秀吉に使え、その覇業を支えると共に、その政権の中枢で活躍しました。秀吉が天下を取ってからは、いわゆる「五奉行」の一人となり、政権実行に活躍しました。秀吉の死後は、豊臣政権防衛のため、「関が原の戦い」を起こし、その西軍に付いたことが、三成を特に有名にしています。三成の性格は、陰険で暗いというイメージを持っていますが、これは、徳川政権下で、意図的に三成の悪評が広められたことに、その原因があるようです。
 三成は秀吉との約束を守ろうとしただけです。司馬遼太郎さんは「三成には、近代人のにおいがする」と言い、堺屋太一氏は三成を、「日本式プロジェクトメーキング法の元祖」と述べています。現在では、講師も私も三成はそんなに悪くないと思っています。