孝謙・称徳天皇と道鏡について

日時 平成23年5月20日(金)
場所 伊丹市立中央公民館
講師 大江 篤 園田学園女子大学教授
1.阿倍内親王(後の孝謙天皇)の立太子に就く・・内親王は西暦738年父が聖武天皇で母が光明皇后の一人娘として生誕、超サラブレッドとして743年臣下を集めて内裏で正式後継者として知らしめた。
(続日本紀に記述されている)その後738年立太子(後にも先にも女子の立太子は彼女だけ)に就く。
2.最初の即位・・孝謙天皇 749年即位するこの時代は聖武・光明(藤原氏の出)・孝謙の三人による強力な政権が出来上がる。 特に752年東大寺大仏開眼儀式の様子が続日本紀の記述されている。しかし756年聖武天皇崩御される。
3.孝謙天皇の譲位と権力の掌握・・女帝孝謙は未婚のため実子がなく758年退位し次に淳仁天皇が即位する。淳仁の奥様は藤原仲麻呂の子供で、これにより光明皇太后・仲麻呂・淳仁の藤原一門が権力の座を占めるが760年光明が亡くなり力が弱まっていく。どうやらこのころから道鏡と知り合っている。764に孝謙、道鏡と仲麻呂、淳仁が争いが起きる、結局仲麻呂側の敗北となる。これが藤原仲麻呂の乱。
4.再び権力の座に就く・・仲麻呂の乱ののち孝謙は尼の姿で称徳天皇となり道鏡も大臣禅師となる、 つぎに765年道鏡は法王となりさらに権力を欲しいままにした。
そして769年起きたのが有名な和気清麻呂、宇佐八幡神託事件でした(ここでは省略)身寄りのない称徳は770年後継者を決めないまま崩御する。なお、道鏡は同年下野国に流され772年死んでいく。
孝謙は結婚もできず、両親の死後身寄りもいない寂しい人生であったと思うと両親の溺愛がこの人を悲劇にしたのではないか。